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【映画の感想】『去年マリエンバートで』

昨日恵比寿ガーデンシネマで『去年マリエンバートで』という映画を見た。
 
自分が見た火曜19時の回は空席が目立つという域を軽く飛び越えてガラガラだった。『去年マリエンバートで』というタイトルが喚起する「記憶」のイメージと、映画評論をしている人たちのコメントがいつにもまして大げさなのが注目に値するので、もう少し入っていてもおかしくないのではと思ったが、想像よりはるかに少ない客入りだった。
平日昼間の回には金と時間のある老人たちが押し寄せ、活況を呈しているのだろうか。しかし、おそらく上映中はそうはならない。ほとんどの老人は開始10分で眠りにつくだろう。セリフなのかナレーションなのか区別のつかない念仏のようなフランス語の繰り返し、悠揚として迫らぬから目盛りを3つ分は遅くしたカメラの動き、登場人物の数はそれなりにいるが主要人物の3人以外は彫像のように動かない(あるいは動く彫像のようにしか動かない)、そして音楽はオルガンで奏でられる単調な不協和音。始まってからの30分間を生き延びられる老人は5%にみたないだろう。
自分ははじめの30分を生き延びられたが、本当に際どくかろうじて、というところだった。去年無職をしていた頃なら簡単なことだったろうが、今年は仕事をしており、しかも仕事帰りに見に行ったので、かろうじて生き延びられただけだった。老人になってから見に行ったならひとたまりもなかったはずだ。
しかし、自分はとにかく生き延びた。この映画のはじめの30分を生き延びられた観客は、たぶん、残りの60分で眠気に襲われるということにはならない。この映画は「振り返って見る」ためにあるようなもので、はじめの30分は振り返る視点というものが観客の中にないことが問題なのだ。
一度振り返る視点を持つことができれば、感情移入というほどのものではないが、登場人物が見ているように画面を見ることができる。決してリズミカルにということはないが、ひとつひとつの行動やその帰結はそれなりに仕方ないものに思える。知っていて振り返ることができれば、そのまなざしの真剣さの意味がわからないにしても、それでたじろぐようなことはなくなる。
 
この映画にコメントを寄せる著名人のひとりが、この映画の舞台はいつの時代かもわからないという内容のことを言っていたが、どうあれ未来のことには感じられない。没時代でありながら、それを見るどの時点からも過去としてしか見做せないのは、括弧つきの過去、すなわち(過ッ去)という趣きである。
「未来の記憶」という語義矛盾表現をならい、「過去の発見」と言ってみたところで、それは既知の言葉に置き換えられて終わる。観念的な言葉の組み合わせゲームは気晴らしにはうってつけだが、そうやって組み合わせてできた言葉はなにかしっくりこないし、定着することはない。
それよりは「過去の記憶」という、一見して意味かぶりがあるような表現のほうが得るもの/気づきが多いのではないか。ソムリエがワイン以外にもあることを知るには「石鹸のソムリエ」「野菜のソムリエ」「墨汁のソムリエ」と、〇〇のソムリエを延々と並べるのではなく、「ワインのソムリエ」と言うだけで済む。
 
たとえば「架空の過去の記憶」は、記憶違いとも取れれば妄想とも取れる。「(架空の)過去の記憶」もほぼ同じで、記憶違いとも取れれば妄想とも取れる。であれば「過去の記憶」も、やはり記憶違いとも取れれば妄想とも取れる。では、「(過去の)記憶」はどうか。「記憶」はどうか。
無限後退パラノイアの動力は、時間が進むことにしかない。もし時間が進まないのなら、記憶は妄想と変わらない。記憶と妄想が入り混じって区別がない宮殿の中では、時間が進むということがない。
映画でありながら、時間が進まないこと(永遠)を表現しようとするのは大胆だし、人によってはそれが表現されていると見なしたりするのは、認識の飛躍(妄想)が実在するかのようで面白い。そして「いつまでたっても――」。
自分は無職だったり仕事をしていたり、その年その年で変化することはあっても、老人になることはない、と思った。『去年マリエンバートで』を見た感想。