だから結局

So After All

僕はうっすら諦めている

僕はうっすら諦めており、何事によらず「あくまで追求する」ということがないので、日々の生活で摩擦を生じにくい。

世の中は、諦めていない人ときっぱり諦めている人の二種類に分かれていると感じる。諦めていない人は何かを追求し、その過程で顔面に強い風を受けている。それでも目を見開き、少しでも前進しようと逆風に向かっていく強さがあり、その強さが目を引く。

きっぱり諦めている人は、自分にできることの範囲を見極め、線引きをしっかりと行なって、その外にはみ出して誰かに迷惑をかけることをよしとしない潔さがあり、その潔さが目を引く。

二種類に分かれてはいても、根は同じというか、結果は同じというか、諦めずにしっかり取り組んだ人ほどきっぱり諦める傾向にあると思う。

強固な物語で自分を支えるのは、苦痛をともなう努力を自分に課すからだろう。強固な物語を必要とすることを責めるのは心苦しいが、必要ではないことをさも必要であるかのように考えるのは端的に誤りであるし、えてしてそのような誤りは、強固であるという性質も相まって周囲に波及するものであるから、やはり間違っている、と言わなくてはならない。

とはいえ、物語の価値はおそらくそれが正しいか間違っているかというところにはないから、強固な物語に乗っかって自分の人生をドライブさせることが間違いとはいえない。諦めないことも、きっぱり諦めることも物語としては成立している。

ただし、僕にとってもあなたにとっても、自分自身の人生は物語ではない。織田信長の人生は、僕にとってもあなたにとっても物語たりえるし、僕にとってのあなたの人生も、あなたにとっての僕の人生も、物語だということはできる。しかし自分自身の人生は物語ではない。僕はこれが大前提であると考えるから、自分の人生に物語を必要とするのは誤りだと思う。

しかし、例外はあり、自分の人生を誰かに話して聞かせたいと思うなら、自分の人生を物語にするほうが便宜だと思う。ただそれにしても便宜の上でそうするのであって、それが本質になってしまっては本末転倒である。

自分の人生を物語的に捉えるのは、それが魅力的なものの見方だからなのか、相当程度共有され一般化されているように思える。インスタグラムの一時投稿の機能名が「ストーリー」というのも示唆的だが、こういう傾向自体は今に始まったことでもなく、ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』の書き出しが示すように、昔からあるものの見方なのだろう。

それでも、他人の頭の中にうまく像を結ぶようにと自分の人生を矮小化してはいけないと僕は思う。矮小化せずに自分の人生を物語にするのはそれなりの能力を必要とするのだろうし、それができている人を見たことがない。妙に誇張してしまったり、変に謙遜してしまうということをしないという第一段階レベルのことでも、自分の事となると難しい。ソクラテスにしても孔子にしても、自分を物語ってはいないし、他人に物語られた存在として名前が残っているにすぎない。

自分の人生、考え方、その時々の判断を物語的にしてしまうという過ちに抵抗するためには、物語のバリエーションをある程度頭の中に入れておくのが有効である。映画やテレビドラマはバラエティに富んでいるようで、売れ線というものがあってどうしても偏りを避けられないので、小説(いわゆる古典文学)を読むのがもっとも効率がいいのではないかと思う。

文学を取り入れる途中では、自分の人生の物語的強化はむしろ促進されるかもしれないが(自分の場合はっきりと強化された)、強化することによって定型的な物語になることを拒否する段階まで漕ぎつけることができれば、少なくとも生半な物語化に陥ることはなくなるのではないかと思う。

あくまで追求する・きっぱり諦めるというマインドセットに推進力があるように見えるのは目標があるからだろうし、目的もなく電車に乗ったりしてあそんでいる人間に知ったような口をきかれたくないだろう。それはわかる。それはわかるが、あくまで追求する・きっぱり諦めるというのは推進力がある考え方のようでいて、実際は短絡思考にすぎない。短絡思考はショートカットキーのようなもので、便利だし、どんな場面においても否定されるべきものだとは思わないけど。

 

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)