だから結局

So After All

悪口の話

どうか Warukuchi と発音してください。
 
東京にやってきてから、いいなと思った人はみんな悪口がうまい。
自分はというと、悪口は言わないことにしていた。悪口を言って良いことなんかひとつもないじゃないか、それよりも面白いことの話、楽しかったこと、好きな映画について話そうよ、しばくぞ、という感じだった。
高校生の頃なんかは、とくに仲良くもないクラスメイトが誰かの陰口なり悪口を言っているのを見かけると、なんでそんなことを言うんだ、馬鹿!とばかりに睨みつけたりなんかしていたし、大学生の頃も、もう少し穏当ながら、基本的には同じで、そういうつまらない会やそういうつまらない回からは距離を置くようにしていた。大学卒業後の関西での無職・フリーター時代も基本的に同じスタンスだったと思う。ただ周囲が大人になったからなのか、悪口を表立って言う人の数自体が減っていったように思う。本音で喋る人というのが限定されたこともあるのかもしれない。
 
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東京に来て、一度目の職場にいたKさんは悪口が上手だった。はっきり悪口を言うから、かえって嫌味がない。自分は皮肉を解しないようフィルターをかけるのが得意で、そのフィルターを外す意味もないので結果皮肉は全シカトしている無敵状態で過ごしているのだが、そういう悪口に鈍感な人間にも一発で悪口だとわかる、意志をもった悪口だった。Kさんはその悪口でまさしく快刀乱麻っぷりを発揮していた。声がいいのも有利にはたらいているとは思うが、あの間のとり方や、悪口のあとの笑顔は、持って生まれたものではなく、明らかに社交の技術だった。
毒舌キャラというのとはちがうし、生粋の毒舌家というのともちがう。ボンバーマンでたとえると、爆弾を9個まで置けるから9個置く、当然でしょという感覚がある。相手を爆殺するのに最低限の個数を置けばいいとはわかっていても、9個も置けるんだったら9個置くっしょ?という小学生のような気合いがある。じゃあ生粋の毒舌家でいいのか。
とにかく、それで得しようという気がまったくない。せこい了見がまるっきり無いのがわかるような、馬鹿げた悪口なのだ。それでいてコミカルに見せようという関西人に多く見られる"サービス精神"という名目の功名心もない。吐き捨てるように吐き捨て、斬り捨てるように斬り捨てる、短くまとまった、あくまでも的確な、急所を突く悪口だ。
悪口を耳にすると、つい、言われた人間の立場に立って考えるというオートマチックな共感機能がはたらき、それで嫌な思いをするという馬鹿げた事態に陥ってしまうが、Kさんの悪口はそういう馬鹿げた事態を許容しない。バッサリ斬られるとかえって清々しいということを知ってさえいればたぶん大丈夫で、悪口を言われた当人にとってもそういう清々しい経験になるんだろうなという聞こえ方がする。
自分もどうかしてそんなふうに悪口を言いたいと思い、機をうかがっている。いつでも悪口を言えるよう身構えている。
とはいえ、目指すべき悪口は「ばか」とか「あほ」とか「うんこたれ」とか言って済まされるものではないし、もっと時宜にかなった、エスプリを感じさせるお点前が要求される。称賛にしても同じで「よかった」「おもしろかった」「すごかった」じゃつまらないとは思うものの、感動すればするほど語彙は奪われるから、感動とは縁遠い、文字通りの意味での言葉遊びとして、悪口のほうがより向いていると思う。
自分も悪口を言っていきたいと思って、積極的に悪口を言っている。それで最近、自分の中の流行語になっているのは「ムカついた」である。本当に腹を立てたらムカついたとは言わないと思うから、それを使うときは本当にはムカついていないよということを言っておきたい。あと、ポイントは「ムカつく」ではなく「ムカついた」と過去形になっているところで、これは花火をしながら「楽しかった〜」というのと同じ仕組みである。まだ喉元を過ぎていないということを逆説的に述べたいのだが、そんなことまでわかれというのは要求過多だろう。
 
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と、こんなふうにおっかなびっくり悪口に取り組んでいてもしょうがないし、わるくすると良くない結果を招きそうなので、一旦、自分の中での悪口をいう試みを休止しようと思う。それでこの日記を書いた。今後自分から悪口がきかれたらラッキーと思ってください。
 
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