だから結局

So After All

昔より今のほうがいいという幻想

本を読む人にとって、本を読むことによる一番の危険はなにか。

本を読むことでその人が何を得たいと望んでいるか、という個々人のちがいを超えて、昔より今のほうが良くなっているという思い込みをしてしまうというのがひとつある。

読んだ本の数が増えるのはどうということもない、ただの足し算である。問題というか、つよく意識されるのは、むしろ、読んでない本の数が指数関数的に増えていくことである。それを意識しながら、それでも最低限、これだけは読んだという本は漸増していく。これは読んでない本が途方もなく広がっていくなかで、頼りないながらも寄る辺となる。溺れる者は藁をも掴むというが、それで助かる見込みはなくても、とにかく、藁は掴みやすい形状をしている。

だから、一年経てば一年分、二年経てば二年分、本を読み進めていくことによって、少しずつ状況がまともに近づいていると感じられる。あの本もあの本も、二年前は読んでいなかったというのは、二年前自分はどういうつもりでやっていっていたのか、普段の生活でどういうことを考えていたのか、読んだ今となってはわからない。そういう自己が拡張される経験が読書によってもたらされる。今を起点にして考えると切断されているような、記憶が途切れるような感覚。そういう経験があるから、自分は大変面倒ながら本を読もうと思うわけで、本によって救われたいわけでもなければ、読んだ本によってマウントをとりたいわけでもない。暇つぶしでよければ読書以外にもっと適した方法があると思う。

こういう読書以外に、べつの読書があるということを自分はうまく想像できないし、想像するつもりもないが、こういう読書特有の、読むことによってもたらされる”何か”への信仰が、昔より今のほうがいいという幻想を生むのだと思っている。

よく聞くのが、太宰治について言われる「太宰は若いときに読む”はしか”みたいなものだ」という言い回しである。自分はこれが気に入らない。青春などといって若さをいいものとする価値観がこういうことを言わせがちだ。自分は若さの価値や青春の価値を認めてこなかったし、これからも認めるつもりはない。それと同時に、昔読んだ本について、今は好んで読まなくなっただけのことなのに、さも自分が成長した結果であるかのように語りたがる自称文学好きも認めない。恥ずかしながら村上春樹が好きで・・・とかいうのも、同じような理屈が介在しているように思われて苦手だ。そういう「恥ずかしいと思う感覚を自分は持ち合わせていますよ」というエクスキューズは恥ずかしいだけでなく、ありふれていてくだらない。

村上春樹が好きなら堂々と村上春樹が好きといえばいい。自分のことは棚に上げながらそう思う。自分の感覚では村上春樹が好きというよりはカフカが好きというほうが恥ずかしいのだが、それでも、いざとなれば、カフカが好きだと広言するにやぶさかでない。まあそんなことは言わないが、それにしても何も言わないでいるほうがマシと思うからで、恥ずかしながらカフカが好きで・・・とかそういうことは絶対に言いたくないと思っている。

村上春樹が好きというのが恥ずかしい(というのが面白い)という風潮にのってそういうふうに振る舞うのはもっと恥ずかしい(ぜんぜん面白くない)ことのはずだが、’もっと恥ずかしいことを言っている’という感なくそういうことをいけしゃあしゃあと言われると、聞いてるこちらが赤面してしまうよというのはシャイが過ぎるだろうか。

 

かつて自分は「仮面ライダー龍騎」という特撮テレビドラマが好きで毎週楽しみに見ていた。しかし、もしその存在を知らずに今放映されていたとしても、一話以上見ることはおそらくないと思う。それは自分の感性が当時と変わっているからしょうがないことだ。だが、それをことさらに仮面ライダー龍騎なんてテレビドラマはしょうもないと喧伝しているとしたら、やはりどうかしていると思う。楽しんで見ている人に向かって、まだそんなくだらないものを見ているの? といえるわけがない。もっと面白い小説あるよとも当然いえない。だからある種の作品については、自分は蓋をしめて、よかった思い出として保管するようにしている。

 

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放って置くと、なぜ好きだったのか思い出せなくなったりすることもあるが、その好きだったはずなのにさっぱり思い出せないことの情けなさをできるかぎり引き受けて生きていきたいし、昔の自分はまともじゃなかったとは何がどうあっても思いたくない。自分はただ変化しただけだとシンプルに考えていたいし、いかなる変化もそれを成長とは呼びたくない。実際にはそれに近いものとみなし内心そう思っていたとしても、成長という言葉を使わないことは自分の中では重要なことだ。

しかし、そういうことはどうしても思いがちである。昔より今のほうがよくなっていると考えるのは慰安になるから。ただ、そうやって進んでいった未来に、今よりもまともな自分がいるとは思えない。そこから敷衍して考えるとやはり、昔より今のほうがいいというのも今を起点にしただけの幻想にすぎない。だから結局、昔好きだったものは捨ててしまわないほうがいいと思っている。捨ててしまうような迂闊なことは言わないほうがいいと思っている。「好きじゃなかった」というのは、好きだったものに対してもしそんなことを言ってしまったのなら、はっきり間違いなので、その都度すぐ訂正したい。それでもうっかりそういうミスは起きそうなので、自動的に訂正する機能をインストールしたいと思っている。