だから結局

So After All

【映画の感想】『アイリッシュマン』

世阿弥の『風姿花伝』に、若きは若きときの、老いては老いたときの演じ方があるという意味のことが書かれている。こんな当たり前のことが書かれてあって、それが今も残っているというのはそのこと自体がメッセージになっていて、それはつまり、若いときのやり方をいつまでも堅持しようとする演じ手がそれだけ多いということだ。役者として老いていくというのは役者として生き残っていくこととイコールであり、生き残る役者というのはすなわち成功した役者なので、彼が老いるというのはそれまでうまく行っていたやり方を変える必要が生じるということである。成功していたやり方を変えなければならないのはおそらく至難の業なのだろう。ひょっとすると個人が一生のうちでやることではないのかもしれない。変化することは次代に託し、自分は自分のやり方をつらぬいたまま死んでいくというのはよくある「人の一生」なのだと思う。それでも自分のできる範囲でこまめにアップデートできるごく一部の人がジジイのスターになることができる。
 
アイリッシュマン』は一代記の体裁をとったギャング映画なのだが、この映画がこれまでのギャング物とちがうのは、主人公が初老のおじ様ぐらいの年齢でスタートし、よぼよぼのジジイ状態で幕引きになるところだ。かなり渋い。大体の一代記では「その後20年の獄中生活を経て、1998年に出所。それから8年後に老人ホームで自然死した」とエンドロール直前にクレジットがついて終わるような部分をしっかり画面に収めており、映画全体もその場面を見せるためにあるように思える。あの自分の棺桶を買いに行く短いシーンは震えるぐらいの名シーンだった。
  
ロバート・デ・ニーロはいつまでたってもロバート・デ・ニーロで、あの困り果てたような最高にチャーミングな笑顔一本で香車のように突き進んでいく。まさに元祖顔芸俳優の面目躍如、まだまだ若いもの(レオナルド・ディカプリオ)には負けんわいという声が聞こえてくるようだ。また、いつかディカプリオとブラピによって演じられるこんな感じの映画を見て、歯抜け特有の空気が抜けるような「ふひゃは」という笑い声を上げることになるのだろうと思ったし、そのラインナップにフィリップ・シーモア・ホフマンが加わればよかったのになと思ってすこし悲しくなりさえした。
この映画ではジジイ俳優としてロバート・デ・ニーロがアルパチーノに格のちがいを見せつけた形だったが、ジョー・ペシのこれまたジジイ怪演によって三者三様という感じになっていいバランスだったと思う。ジョー・ペシのしゃがれ声はこの映画でジジイを演じるために天から与えられた声だったのかと思ったほどだ。笠智衆レベルでジジイが板についており、なぜ引退しているのかまったくの謎だ。彼をカムバックさせた一事をとってもスコセッシはいい仕事をした。
 
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中学生のとき、おじさんはみんなおじさんというひとくくりにして済ましていたのと同じように、今、じじいは皆じじいとひとくくりにして済ましているが、そこにもグラデーションもあれば個人個人による老い方のちがいもあるという当たり前のことを思ったりした。こういう当たり前のことに気づかせてくれる映画は長く愛される大作の証だと思っているが、『アイリッシュマン』はその意味で長く愛されることになる大作だと思う。クソ野郎は長生きできないし、本当のクソ野郎はジジイになってもクソ野郎だというのは考えてみればわかる当たり前のことだ。普段そんなこと考えないだけで。
誰だって死ぬのがこわいというのもそれと同じで、当たり前のことだが、普段はそんなことを考えていない。それで肉も食えば魚も食う。普段そんなこと考えないが、殺して、食う。『アイリッシュマン』は3時間30分の長い上映時間を通してそれを画面に映し続けており、そのせいで自分は一秒も退屈しなかった。
 
グッドフェローズ (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video