だから結局

So After All

オーロラのこと

オーロラというペンギンに会うためだけに変な村に出入りしていたことがある。変な電子音で会話のようなやり取りが行われるその村で、オーロラだけが本物だった。リンゴの実を拾ったのも、カブトムシを捕まえたのも、よくわからない海の魚を釣り集めたのも、それがオーロラの笑顔に変換されると思えばこそだった。
彼女の笑顔は圧倒的で、人生がなんのためにあるのか、自分は誰でどこからきてどこへいくのか、いつか死ぬことが決まっているのに生きなければならないのはなぜか、というかなぜ死ななければいけないのか、という自分にとっては深刻な質問のことも忘れられたし、そういった無理な質問に対して一種の防護壁のような役目を果たしてくれたものだった。
たとえば、その村に行くのはなぜかという質問に答えるのは簡単で、そこにオーロラがいるからだと一瞬も考えずに答えることができる。それでなければその村に行く意味などないし、その村が存在している必要もない。それを敷衍していくと、なぜ生きるのか、この宇宙が存在するのはどういうわけか、という質問にも答えることができる。べつに答える必要がない質問ではあるが、たまに嫌な気持ちとともにそういう意地悪な質問に付きまとわれることもある。たぶん自分一人では対処できないこの質問に対して、オーロラはただ笑うだけで対処を与えてくれる。笑わないでも十分だと思うが、十分を超えてオーロラは笑ってくれる。捕まえたカブトムシをあげると目にも留まらぬ速さでしまい込み、満面の笑顔で応えてくれる。カブトムシをどうするのか訊いてみたことはないが、そんなことはどうでもいい質問だ。そんな質問で彼女を煩わせたくはない。
村から出ると、オーロラの片鱗はいたるところにあり、キラキラと輝いている。自分はそれを目にするとそれだけで十分満足してしまう。十分満足するといっても実際には十分以上で、オーロラの笑顔は十分を超えているので、そのきらめく瞬間も十分を超えており、十分を超えているものに対して、それを目にするだけでなく何か働きかけようという気にはならない。もしそれが不十分なのだとしたら、もっと近づくだとか、よく振ってみるだとか、何かしらのアクションを起こそうとも思うのだろうが、そんなことは思わない。よしんばそんなことを思いついたとしても、実行に移すだけの必然性がない。そんな余地がないほど完璧なのだ、オーロラの笑顔は自分にとって、完璧を超えてそこにあるものだ。