だから結局

So After All

朝活のこと

朝活のこと
 
高校のときに部活をやめてから、あらゆる活から逃れて生きてきた。そのあいだに就活、婚活、終活、恋活、妊活と、世の中では様々な活が流行り、皆で忙しい現代人のコスプレをしているかのごとく、右も左も活活と息巻いている。それにしても妊活て。妊活ですか。はー。妊活。
妊活はともかく、自分は活に対しては良いイメージがない。日の当たるところでぽかーんとした脳みそをぷかぷか浮かべながら身体だけがさかんに上下動、あるいは右往左往しているような牧歌的なイメージが先行して、ああはなりたくないものだと、なれもしないのに余計な心配をしてはカロリーを消費していた。
しかし、どうやっても生活をすることは避けられず、生活をするということはイコール自活をすることであり、自活といっても自給自足で生きることもできないわけで、仕方なく親に頼って、精神的に自活をしてきた。最近では親に頼る割合が減って、その分、社会に寄生するような形で自活をしている。
自活内容を吟味検討してみると、平日は3分の1以上の時間を仕事に、3分の1の時間を睡眠に、6分の1の時間を食事等の雑事に費やし、残り6分の1以下の時間をやりくりし読書、運動、映画、交際、音楽、ブログのどれかをやったりやらなかったりしている。標準地球時間に換算するとだいたい3-4時間だ。人によってはそれで十分と思うかもしれないが、十分であるわけがない。たとえば残業というイベントが発生した場合、その一日は死ぬことになる。一事が万事という言葉の通り、一日が死ぬということはつまり毎日がエブリデイということで、一瞬でもそれを許容してしまうと、死んだままの生活(ゾンビ活)を余儀なくされるのである。
自活のなかで自分にとって大切な時間の量を増やすことは喫緊の課題である。これにはいくつかの対処法がある。第一の方法は平日の3分の1以上の時間を占める「仕事」をやめること。無限にカネが湧く機械を発明できれば、発明できなくても発見できれば達成できるが、現実には難しい……。第二の方法は平日の3分の1以上の時間を占める「仕事」を自分にとっての大切な時間に設定すること。これについては第一の方法よりも難しいところで、第一の方法ほど荒唐無稽とは言えないからつらい。そう感じて生きているように見える牧歌的な人は目にするし、そう感じようと思って意思的に生活しているコスプレイヤーも目にする。そういうのを見ると毒気に当てられて、自分も腰を据えて取り組まないといけないと迷わされることもあり、しかし本質的にはどうしても腹に据えかねるので、結果、腰と腹が別の方向に歩き出しそうになって背中の動きが変になる。
量を増やすためには雑事の時間を減らす方向も考えられる。それで部屋にはルンバを設置しているし、一度は完全栄養食COMPを導入して食事時間を削ることを試みた。しかし6分の1時間からの削減なのでそこまで抜本的なソリューションとは言えず、一定の効果はあるものの一定以上の効果は認められない。
自分は主観主義者なので、時間の量を増やしたいというのは即ち主観時間の量を増やしたいということを含意している。それで時間にまつわる本をいろいろ読んでいる時期もあったのだが、それで主観時間は増えたような気もするし、変わらないようにも思われる。何せ主観時間なので比べるべき対象が存在せず、他人の感じている主観時間はもちろん、過去の自分が感じていた主観時間量とも比べる方法がない。コミュニケーションはつねに不完全だし、記憶は曖昧だし、”ただ一切は過ぎていく”からだ。
ただ、時間のことを考える時間が増えたことで時間のことがより好きになったという副次的効果は見られる。無駄な時間も、それが時間のバリエーションのひとつだと考えられると捨てたものではないと思えたりする。バラエティに富む、色々な時間の送り方をするというのは今の自分のなんとなくの目標になっていて、それで仕事一辺倒になることを嫌がっているのかもしれない。
主観時間とも関連するが、時間の量を増やすのではなく、時間の質を高めるという方向性が考えられる。ただし、質の低い時間−質の高い時間という一軸で考えるのは自分の主観時間にとっては危険なので、あくまでバロメータのひとつとして、時間の質について考え、高める方法がないか探っていくというスタンスをとる。
仕事後の時間にスタバで本を読むというのはここ一年ほど続いている習慣で、自分はその時間がとくに好きである。その習慣のおかげで読めた面白い本はたくさんある。ということはつまり、もしその習慣を採用していなければ読んでいない本もあっただろうということで、そのことを考えるとホッと胸をなでおろすような気持ちになる。
ところが、その時間にしてもつねに十分な質が確保されていたかといえば心許ない。ここでいう質というのは集中して本を読めているかどうかで、心配なのは本を読むときに必要になる自身の認知資源である。面白い本の特徴でもあるが、本を読むには集中を要する。仕事後のスタバという性質上、疲れで集中ができないあるいは集中が保てないということがあった。
そこで思いついたのが、早朝に目を覚まし、早朝に通勤し、早朝に職場最寄り駅近くのスタバに行き、早朝に本を読んだりなんかする、いわゆる朝活である。まだ始めて一週間だが、朝活には色々な良いことがある。認知資源が丸々残っているので頭が働くというのが最大の利点であるが、満員電車に乗らずに済むというのもかなり大きい。他には経由する渋谷駅で、クラブで遊び疲れたとおぼしい朝帰りのろくでもない連中とすれ違うのも何ともいえず心和む。かなりメリットが大きいので今のところ続けられる気がしているが、問題もないわけではない。朝5時半に起きるためには夜9時半には床に就いていなければならず、見たいテレビがほとんど見れない。それについてはもともと家にテレビを置いておらずテレビを見る習慣がないので事なきを得たのだが、9時半に寝るということは彼女と電話したりテキストを送ったりする時間が持てないということだ。これが想定される一番の問題かもしれない。今は彼女がいないので泣く泣く事なきを得ているという別の問題があるのだが。
 

 

心にとって時間とは何か (講談社現代新書)

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