だから結局

So After All

よく尊敬されようとしてしまう

何にでも線引きをせずにはいられない性格だった。高慢で、ありとあらゆるものに対して及ばない及ばないと口ずさむことで何らかのリズムをとっていた。今でもそういう傾向は色濃く残っているんだろうとは思うが、私としては、できるだけ線引きすることをやめよう、線引きしてしまうことは避けられないにしても引いた線の向こう側にあるものを至らないと考えることはやめようと思ってきた。どんなことでも考えてもいい、どんなレベルの低いことでも考えていいのだと思おうとしてきた。その結果、まだまだ足りないにせよ模範的な考え方から距離を取りたいと思っているということだけは言えるようになったと思う。
私はできるだけ優れた考え方をしていたいし、賢くスマートでありたい。それが誰かから見える賢いであったり優れた考えであってもそう見られることに何ら不都合はないし、私が思う賢いや優れた考え方と衝突しないかぎりにおいて、積極的にそう思われる途を選んでいこうと思っている。はっきり言って私は尊敬されたい。
よく尊敬されている人、たとえば高倉健さんは絶対に尊敬されたいということは言わないと思う。なぜなら高倉さんには尊敬されたいという思いがないからで、もしそんな思いを持ったうえでああやって生きてきたのなら幻滅するという人は多いだろうと思う。思ってもいないことを言う必要はないし、そう思っていなかったからこそそう言わなかったのだろうから高倉さんは責められない。
しかし高倉さんにしてもワンチャンス、そういうことを思っていたと考えられないでもない。それというのも高倉さんは無口で知られるからだ。無口な人が喋らないからといって何も考えていないわけではない、というスタンスを取るかぎり、高倉さんがいろいろなことを考えていなかったということは言えない。そしていろいろなことを高倉さんが考えていたのだとした場合、その中に尊敬されたいという思いがなかったということは言えない。世の中の多くの人は尊敬されたいと考えていると思われるからだ。自分は尊敬されるなんて不可能だと正しく自己認識しているおじさんだって、まかり間違って大金が転がり込んできた途端、尊敬を求めるだろうことに疑いの余地はない。100パーセントラッキーでしかない大金ゲットだとしても、自分は運が良いのだというところから始まって、できるだけ尊敬されるように振る舞おうとするはずだ。大型犬を三匹飼ってケルベロスを連れ歩くような散歩をしたりして。
つまり何が言いたいかというと、社交する動物である人間は、誰しも潜在的に尊敬されたいものだし、尊敬されたいと思うなら尊敬されるように振る舞え、ということだ。間違ってもブログに尊敬されたいなどと書いてはいけない。それでも尊敬されたいと書くのは、これはこうだ、これはこうすべきだ、という考え方から距離を取りたいからに他ならず、愚かなことをやってみせ、ほら、わざとだよと言うことで、ああ言ってはいるけれど実際には愚かではないのでは? と思われたいといったせこい作戦からではない。ではないのだが、べつにどっちであってもよく、本当は良くないのだが(良くないからこそ区別しようとして2パターンの理由を書いている)、どっちでもいいと思うことがさしあたっての目標であるために、尊敬されたいと書いているのである。だから本当のところ尊敬されたいわけではない。なので尊敬されてもいいのではないかと思う。べつに尊敬されなくてもかまわないが。しかしそうである以上、尊敬されてしかるべきだろうとは思う。どれだけ控えめに言っても、あなたが私なら尊敬するだろうと思う。しかし私があなたなら尊敬しないことになるはずなのでややこしいといえばややこしい。なぜなら、私はあなたではないし、あなたは私ではないからだ。でもまあ、どっちでもいいと思うんだけどね、私は。
 

 

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

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