だから結局

So After All

だから結局

 
できることはなんでもしようという気分になっている。そういう時期なんだと思う。
できないことはできないのでしない。できることはできるのでする。とても単純なことのようだが、しないでいることができる、しないでいることができないという要件も加わると一気に話がややこしくなる。
たとえば、わたしは人よりも不安を感じないでいることができるという性質を持っているようなのだが、これなどは、もっと単純に「不安を感じることができない」という言い方もできる。
しかし、わたしにとってのできるできない問題というのは単なる言い方の問題ではない。
 
わたしは東京に住んでおり、毎週末横浜に行くことができるのはもちろんのこと、毎週末横浜に行かないでいることもできる。このようにどちらもできるというとき、発揮されるのが自由だと思っていて、できるというのにはするしないの判断が自分で下せるかどうかということが大きい。状況に流されて普段しないことができるというのは、振り返ってみたときに、あまりできたという感じがしない。普段できないということを強く意識している場合などは、その軛から開放されるという意味においてできたと思うものだが、それにしても初回特典のようなもので、一度やってのければそれで満足するようなものでしかなく、できたという満足感はかなりのスピードで失われる。
こういうのは言い過ぎにあたるかもしれないが、できたでは意味がないとさえいえる。できるであり続けること、できるが持続することが大事であり、それはするしないの判断をつねに自分で下せること、行為の制限がかからないあるいはその制限を自らの意志でスイッチできるということを意味する。できたというのはできたということであり、今はできないということである。今現在を軸にして考えると、できたはできないにより近い。
 
人間関係においてできることは限られている。まず、相手がいる場合には自分の意志だけで事を進めることはできない。だから当然、自分だけでできること・ひとりでやれることの比重を高めるのが得だと思うが、そのような得をとらない人は結構多い。誰かと何かをすることの価値は自分一人ですることの価値より高いと感じているようだ。たしかに、より困難な事柄のほうがそれを成し遂げたときの達成感は大きいものだし、ひとりでできることの価値より他人と協同してできることの価値のほうが大きいと思うのは理にかなっている。コントロール対象が自分以外にも生じるからだ。それもあって他人がどう思うかということに考えが及ぶ能力は重宝される。相手がいる行為では、相手の気分を害するのは自分の達成を妨げることに直接つながる。しかし、価値をどこに置くかというのを考える機能を失ってしまうと、できないことがものすごく減るかわりに、つねに他人(の評価)が必要になる。ひとりでできることの価値がなくなってしまう。
ただ、ひとりですることに価値がないとする場合(ひとりですることに価値を感じることができない場合)でも、問題は起こらない。むしろ余計な考えが削ぎ落とされて社会生活はより円滑になる可能性さえある。見も知らない他人同士でも共感できる価値観というものがあって、それに従っているかぎり、正確にはそれに沿った生活ができているかぎり、できないことは存在しないに等しい。
 
できないと言えることは大事だし、できると思えることも大事だ。できることが増えていく感覚を持ち続けるためにはできないことに目を向けていなければならない。わたしたちはできないことしかできるようにはならない。そして、できると思えなければそれができたところで何の意味もない。
かつまた、わたしはできるできないを量の問題にしたくない。できることが減っていってできないことが増えていくのが目に見えているからだ。できるを針小棒大に考える錯誤の能力を高める必要が日毎増しているのを感じる最中にわたしはある。昨日の自分に追い抜かされるようなことがあっても機嫌を悪くせず、だらだらやっていくだけだ。今時点でできることをできるだけやるだけ。お道化てみても始まらないなら茶化してみればいいじゃない、とかおちゃらけたりなんだり、打つ手はいくらでもある。
 
 
だから結局、
できるやつは何やってもできるし、
できないやつはできないってだけの話だろ?
(シュート決める)

 

 
ハムレット (白水Uブックス (23))

ハムレット (白水Uブックス (23))