だから結局

So After All

カフカ/臆断/できること・できないこと

先日、カフカの小説を読み終わった。カフカは大学時代に『城』を残して読めるものはすべて読んだ気でいたから、『城』を読み終わったときにカフカを読み終わったと思った。しかし実際には『審判』も読んでおらず、書店で『審判』を探す準備をしているうちに、『アメリカ』(『失踪者』)も読んでいないことに気づいた。そんな折、近所の古本屋に『アメリカ』が置いてあるのを見つけ、渡りに船とばかり買って帰り読もうとしたが訳が合わずに断念。たまらず図書館で白水社から出ている『失踪者』を借りて読み始めた(タイトルは『失踪者』より『アメリカ』のほうが断然良いと思うので余計に中身の訳が残念だった)。それを読み終えた勢いで『審判』も読み始め、ちょうど先日、読み終えた。カフカの小説は、個人を代表する主人公が、組織や組織が発揮するシステムによってわけのわからないまま破滅に追い込まれていく様を淡々と描くところに特徴がある。『変身』のイメージでは、ありそうもないことに真実味を持たせているように感じられるが、『城』『アメリカ』『審判』では、ありそうもないことだとは思えない出来事がただ進んでいくだけで、そこに真実味は感じられない。その代わりに真実味のあるなしの判断が封じられているともいえ、こんなことはあり得ないと思えることによってそれが虚構であると安心していられた『変身』とは違い、何かがおかしいながらそのおかしい部分を露わにしないことによって読者は宙吊りにされる。真実味を持たせようという意図がまったく感じられないことが不気味である。ところで、現実はおそらくこれが現実なんだという主張をすることはないはずである。たとえば、現実を見ろというときの現実とは、現実そのものというよりは、甘い理想や勝手な妄想の対置物にすぎない。同じように、『変身』が真実味の構築を目指しているように見えるのは読者の臆断にすぎない。しかし臆断であってもそのように見立てることは可能であるし、可能である以上はそうなるものである。その意味で『変身』はカフカの初読者に易しい。実際に易しいといって安心していられるかどうかというのは別問題にしても、一応は始まりがあり終わりがある物語として読むことができる。一方、『城』『アメリカ』『審判』は未完のため、そのように読むことができない。カフカを読み終わったということは原理的には誰にもできない。カフカの小説は、これは現実であるという主張をしない上に、原理的に読み終わることができないものである。理想や妄想でもなければその対置物でもないとすればそれは一体何なのだろうか。私にはこれが現実だといって何かを指差すことができない。カフカの小説にしても同じことで、これがカフカの小説だといって指差すことができない。であるとするなら、先日私が読み終えた小説は何だったのだろう。指差し得ないものを読み始め、指差し得ないまま読み終えたというだけのことなのだろうか。カフカの小説を読み終えたといえるのは、それを読み終えたと勘違いした読者だけである。実際、『アメリカ』と『審判』を読み残していた私は『城』を読み終えた時点でカフカを読み終えたと思うことができたし、今も『流刑地にて』を読んでいたかどうかがわからなくなり、記憶が曖昧なままであるため、思い切って上のようなことが述べられた。まったくのでたらめ事であっても述べるのが可能である以上はそうなるものである。

 

 

明暗 (新潮文庫)

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