だから結局

So After All

「最高の復讐とは、優雅な生活」とは

メメント・モリ(=死を思え)というのは、他人を特定の観想に引き込むときの常套句である。死は誰にでも平等に訪れることから、ターゲットは広く、ターゲットひとりひとりの注意も引きやすい。恋愛ドラマで主人公か相手役に死すべき運命を担わせるのは、手法としては使い古されていたとしても、生きている者にとってはつねに有効である。有無を言わせず有効でありすぎることから、あまり褒められたやり方ではないとされるが、それでもやはり有効である。注意を引きたいという目的があるのならこれ以上に有効な方法はない。わたしはこのやり口が気に入らず、下品だと思っているが、その有効性については認めざるを得ない。それに下品である物事を下品であるといって批難することの虚しさ・虚偽性についても自覚させられないではいられないし、下品であることと感動とが結びついてはいけないなどという法はない。むしろ上品な感動と広く認められるような表現にこそ眉に唾つけるべきだと考えている。しかし、だからといって死によって注意を引こうとするのは下品で、気に入らないという考えが変わることはない。

わたしには死に収束していくような考え方に対する抵抗がある。死ぬときに人生を振り返って「いい人生だった」と思えたらそれでいいという意見にも明確に反対である。そうなっているという自然に沿って物事を考えるというのでは考える甲斐がないと思っている。なにか正解があってそれについての解説をしたり証明をするために考えるのは結論が正しいだけのこじつけであるとしか思えない。結論が正しい場合、その結論に至るための順路は普通こじつけとは言われないというのは承知の上で、それでもこじつけ以上の価値を認められないのだからこじつけと見なすしかない。そんなことに意を砕くよりは、正解とされる見解をきっぱり無視し、自分にとっての最適解を見つけようとするためにリソースを割り振るべきだと考えている。同じこじつけであってもそのほうがはるかに満足できるにちがいない。他人にとっては単に愚かで間違っている正真正銘のこじつけであっても、不幸な人生だったと見なされても、自然に沿って正解を選び続けることよりはマシなのではないかという直観がある。その直観をもとに動いているので、もう正解を選び続ける線は自分の中で消えており、どちらがいいわるいという正確な判断はできないのだが、それは向こうにしても同じことで、100回連続正解をしている回答者にトライアルアンドエラーは実質不可能なのではないか。

しかし、こういう考え方自体、つまり正しい道と間違っている道があるという二者択一の考え方自体が、人生を生き直すことはできないという思い込みに突き動かされてのものである。思い込みとは言いながら、実際、人生を生き直すなどということができるとは思えない。もし時間に限りがないならば、間違っている道を行ったら引き返して別の道を探せばいいだけの話なのだが、なんとわたしの時間には限りがあるとされていて、どうやらそれが自然の事実というものらしいからだ。

 

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優雅な生活が最高の復讐であるという言い回しを借りるなら、永遠に生きると思いながら、死などないものとして生きる今日一日を明日も繰り返すことができると無条件に信じられることこそが優雅な生活というものであり、わたしにとっての最高の復讐である。いつか死ぬことは避けられないのだから精一杯今を生きようという考え方とは、結論が同じだけでまったくの別物で、お互い相容れないと考えている。しかし誰か気のいいやつに結論同じなんだから同じでいいよねと言われたら同じではないと否定はしても拒否はしないだろうと思う。ただ、何をもって充実とするかというのは段々と食い違っていきそうであり、あらかじめ「違う」と言っておいたほうが後々のためだと思っている。

しかし、そうやってこちらと向こうとを「此岸」と「彼岸」とに分断するような考え方をしていていいのか。どう動こうが結局、大きな自然の流れに強制されてのことになるようで悔しい。復讐はどうしても必要だ。やるからには最高の復讐を遂げるべきである。

 

 

順列都市〔上〕

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