だから結局

So After All

相互理解という甘言に惑わされて

 
 
世の中は甘い言葉であふれている。全品20%OFFだとか、一本ご購入でもう一本無料だとか、お金というシビアで辛い数値をマイルドにさせる局面で甘さというのは感じやすいが、シビアで即物的な領域外にも甘い言葉は埋め込まれていて、われわれを行動に誘い出す。何のためにといえばお金を吐き出させるためにということもしばしばであり、結局お金関連になるという世知辛さを回避できないものの、さらにその領域外、お金圏外と思われる場所にも甘い言葉は潜んでいる。白いユリが挿してある鉢の水が甘く感じられるように、花びらについた朝露のしずくがシロップに見えるような、即物的ではないだけに現実からすると錯覚でしかないようなところにある言葉。1円にもならないこと以外に価値がない甘言。騙されてもいいという諦めにも似た気構えがなければ響かないが、逆に言うとそれさえあればいつも無料で鳴る鐘。お金を出せば鳴る音と、お金を出さなくても鳴る音、どちらが真実なのかと聞かれれば答えてやるのが世の情けとは言いながら、いくらまでなら出す?と反問するのは基本中の基本で、下手なアンカリングで相手を楽な位置につかせてはいけない。風上に私、風下にあなた。受け取るのが私、与えるのがあなた。私とあなたにいつも私とあなたの区別がつくように、立ち位置を決めておく。お金という媒介があればこそ相互理解にもはかがいく。そんなものがなくても相互理解は可能だと言ってもらうために、お金を媒介にした相互理解があるのであって、それを相互理解Aとしたとき、目指すべきは相互理解Aの代替物であるところの相互理解A’だ。それはお金とは関係のないものだという甘いことを言うために、やはりお金は役に立つ。お金の不在は真実味に寄与する。真実味は私のためのものではない。誰かが正しい方向に説得されやすくなるためのものであり、私以外のためのもの、サービスである。私にとって自明のことでも私以外には自明ではないということはあるから、真実味で嚥下しやすくさせる。相互理解A'の発動条件は腑に落ちることだ。私はあなたに与えることができる。だから私がするべきなのは与えないことで、あなたが私に与えることができるのであれば、同じようにするべきなのは与えないことだ。それでお互いが受け取ることができる。しかしもし、あなたが私に与えることができないのであれば、あなたがするべきは与えることである。与えようとすることではなく与えること。与えようとせず、与えていると思わないまま与えることである。それができてはじめてお互いが受け取ることができる。どちらかが受け取らないで相互理解というのはありえない。お互い与えながらお互い受け取ることができず相互理解のまがいもので立ち止まっているよりは、一方向的な与えると受け取るに終始するほうがまだマシである。とはいえ、片側理解は相互理解への途上であるという希望を捨てないでいることは、相互理解のまがいものよりもマシであるための条件になる。あなたは期待せずに与え、なおかつそれについて希望を失ってはならない。諦めにも似た気構えをもって片側理解を続けるのは一番おろかなことである。不可能と知りつつ相互理解を図ろうとする中にしか本当の理解はありえない。私は一方的でいいんだ、私があなたを理解していればそれでいいんだと本気で言うのは、片側理解のまがいものであり、立ち止まっているどころか椅子に座っているようなものである。いつか誰かが立ち止まって、あなたに質問をかけるときがくるかもしれないが、それは次のようなものになるだろう。その椅子いくらですか、と。もちろんそれには答えてはいけない。いくらまでなら出しますか、と反問する。もし売るなら高く売れるに越したことはないし、売らないにしても高く見積もられる方が安く見積もられるより良いはずだ。どうせそれ以外に基準もないのだから。
 

 

読書で離婚を考えた。 (幻冬舎文庫)

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