だから結局

So After All

【映画の感想】シン・エヴァンゲリオン

シン・エヴァンゲリオンを見た。初っ端、パリのシーンからグッと引き込まれ、例のテーマ曲がアレンジされてかかるたびごとにしっかりテンションが上がり楽しめた。

なかでも、今回のシン・エヴァンゲリオンで良いと思ったのは綾波レイのそっくりさんが涙を流すシーンだった。

コピーのコピーであり、ニュートラル、あらゆる意味付けから解放されているかに見える”綾波レイのそっくりさん”は、エヴァンゲリオンの世界観の中でのみ成立する、フィクション度数がとくに高いキャラクターだ。

アスカやカヲルもエヴァンゲリオンを代表する看板キャラクターで、フィクション度数はそれなりに高いのだが、現実を相手取ったイデオロギー対立に組み込まれている感があり、自律しているからこそ自立していない。彼らの場合、現実との関係においてさまざまな要素を見て取られることになるからだ。

そのベクトルは綾波レイのそっくりさんにも同じように向きはじめる。社会・生活を描く場としての村に綾波レイのそっくりさんを配置することで、彼女を染め上げようとする視点が自動的に立ち上がるというように。村という素朴な生活を営んでいるとみえる場所にいることで、人間味のようなものを期待するところにも力の行使は発生していく。

村にいるから農作業を手伝うという、ある行為がその行為であることの無意味さと、綾波レイの顔貌にそっくりだから綾波と名付けられることの無意味さは、その無意味さゆえに強い力を持つ。意志とは関係なく、自己と他とを弁別する識別子を持たず、ただ周囲に従っているだけでもいつか涙は流れうるのだというところに説得力を感じられるのだとすれば、そう感受することすらも力の行使だということは可能だろう。しかし、それは村のイメージが持つ素朴さよりもなお素朴で、ほとんど無意味といってもいいほどの力だ。そこには極小の意味しかない。そうであるとするならば、ミクロな差異でしかない綾のようなものを均してしまわないよう慎重にそれに接するべきだ。無意味さに充たされてある時間が必要だ。それはふたたび立ち上がるためにとか、前を向くためにも必要なのかもしれないが、そんなものがなかったとしても、どういうわけでそうなのか分からなくてもやはり必要だ。

フィクションだ、エヴァンゲリオンだ、綾波だ、という声に文字通りかき消されてしまうキャラクターを自立させているところ、そして実際にかき消させてしまうところに、私のシン・エヴァンゲリオンに対するアンビバレントな評価がある。シリーズとしてのエヴァとか知らん、とにかくあの綾波レイのそっくりさんに消えてほしくなかったという思いがあるからこそ、それを背負う形でエヴァンゲリオンシリーズがあるのだと思う。私の中でこの順番は逆にはなりえないし、なるべきじゃないと思う。