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So After All

【劇評】フェイクスピア

 

フェイクスピア

NODA-MAP 第24回公演(2021年)

作・演出:野田秀樹

出演:高橋一生橋爪功白石加代子川平慈英前田敦子村岡希美伊原剛志野田秀樹

 

※物語の結末に触れる箇所があるため、これから見る予定がある人は読まないことを推奨

 

■梗概

舞台奥から手前にむかって下がるバンクがある。山の斜面のようでもある。上手と下手にそれぞれ一本柱が立っている。木のようにも見える。

場面転換にはほとんど暗転を用いず、人力で走り抜ける幕とそれに合わせた効果音を用いる。人物の登場と退場も幕が走り抜ける際になされる。幕には墨で躍動感ある風の絵が描かれている。

 

舞台は白石加代子が謎の男(高橋一生)の独白を遮るような形で始まる。
白石加代子です、女優をやっています」から始まる白石の語りは役を演じる以前の白石自身の生の声に聞こえる。しかし、演劇のセリフを超えた客席への語りかけのようでありつつ、やがて声と身体表現とのズレが発生し、あらかじめ吹き込まれたテープの声に身体を合わせる演技(口パク)であることが明らかになる。テープの声は演じている白石本人の声であるにもかかわらず、それが偽の声のように聴こえるのは、演劇という舞台芸術のリアリティに反しているからか。その後のセリフのやり取りにおいても、そのセリフ回しが見事であればあるだけ、ひょっとしたらあらかじめ吹き込まれた声なのではないかという疑念が頭の片隅に小さく形作られる。
白石加代子によって遮られた高橋一生の独白は次のセリフだ。大木が倒れるのを12、3人ぐらいの人物が一斉に倒れることでそう見立てたアクションに続き、物語は高橋の語りで始まる(高橋の役名はMONO)。
「ずしーんとばかりとてつもなく大きな音を立てて大木が倒れていく。けれども誰もいない森ではその音を聞くものがいない。誰にも聞こえない音。それは、音だろうか。そして私は誰もいない森でこの話をしている。誰にも聞こえない言葉。それは、言葉だろうか。なんのために誰もいない森で倒れる大木は音を立てるのか。なんのために誰もいない森で私は言葉を紡いでいるのだ。そう言い終わると神様は誰もいない森で永遠に目をつぶった・・・」

いかにも演劇的な導入に対し、水を差すような形であとを引き継ぐ白石加代子の語りと自己紹介によって、彼女は恐山のイタコ見習いだということがまず明らかになる。イタコを志してから50年間イタコ見習いを続けているという彼女のもとに、お客が二人同時に現れる。二人というのは若い男(高橋一生)と年老いた男(橋爪功)で、一人のイタコに対して二人の客がつくダブルブッキングである。橋爪功は演劇に携わっていたことがあるといった様子で、誰を降霊してほしいのかというイタコ見習いの質問に対して、代わる代わるシェイクスピア悲劇の登場人物を演じることで答える。橋爪が演じる人物の素性が明かされないまま始まる堂に入った演技に場が支配される。ただし、人物の謎は明らかにされず、棚上げになったままである。(あそこまで見事にシェイクスピアを演じることから判断すると、これは白石がはじめ女優・白石加代子を演じたのと同じで、橋爪が俳優・橋爪功を演じたとも受け取れる)橋爪の演じ分けに対し完璧に呼応する高橋一生も奇妙である……。

彼らのやり取りに呆気にとられたイタコ見習い(白石加代子)は伝説のイタコ(前田敦子)を自身に降ろし、自らを「ヘタでクソ」だと叱咤する。謎が少しずつ明らかになるというよりは謎が謎を呼ぶ展開がその後もしばらくつづく。橋爪のマクベス等に押され気味だったイタコは先輩イタコのオタコ姐さん(村岡希美)の力を借りて勢いを盛り返し、パワーバランスは均衡状態になる。謎の男(MONO=高橋一生)は記憶喪失なのか自らの正体を知らない。そして中身が何かわからない小さな箱を大事そうに持っている。そこに三日坊主(伊原剛志)と神の使い(川平慈英)を自称する詐欺師・騙りの類が登場し、MONOが持つ「真の葉」が入っているという箱を盗み出そうとする。
シェイクスピア野田秀樹)とシェイクスピアの息子を自称するフェイクスピア(野田秀樹)(実際はフェイクスピアを演じているシェイクスピア本人)が登場し、四大悲劇についての血液型診断的レクチャーをする。さらには星の王子さま前田敦子)も登場し「大切なことは目に見えない」との暗示をハキハキとよく通る声でほのめかす。上演時間も終わりに近づいているなかで、バケツを引っくり返すかのような直接的なフィクションへの言及が大団円を予感させる。これらすべてをイタコによる高度な降霊術だと見なすことで、雑然とした中に秩序とリアリティを見出すことも可能だが、そうまでしてリアリティが必要になるとも感じられない混沌とした筋運びのなか、真実と見立てられた箱の中身が突如として明かされる。それは36年前に墜落した飛行機の操縦室音声記録装置 (CVR:Cockpit Voice Recorder)に記録された声だった。謎の男はパイロットであり、年老いた男が幼い頃亡くした父親だった。

 

■なんのために音を立てるのか/なんのために言葉を紡ぐのか

録音された声には「頑張れ頑張れ」「気合を入れろ」という激励があった。いかにも平凡な言葉で、それのみを切り出したところでそこに真実があるとは思えない。墜落の危機に瀕した飛行機のコックピットというシチュエーションでなければ演劇的には成立しないほど、素朴で、粗雑な言葉遣いである。言葉が真実のものになるかどうかというのはそれが配置された場所や文脈によるものだから一概に粗雑だとすることはできないが、それはようするに、その声を聞く者が場所や文脈を知らなければ言葉は真実のものにはなり得ず、粗雑で、取るに足らない、つまらないものとみなされるということでもある。

『ペスト』を書いたことで有名なカミュは思弁的な著書『反抗的人間』の書き出しで次のように述べる。

 

「反抗的人間とはなにか? 否という人間である。しかし、拒否しても断念はしない」

 

端的に要所を一突きにしたかっこいい物言いだ。

しかし、「否」というのは[y/n]の[n]でしかない。単純に[y]がダメ、[n]が良いというものではないはずだし、煎じ詰めるとそういうことなのだとしても、そこまでエスプリを抽出してしまうと人間にはほとんど立つ瀬がない。
『反抗的人間』が反抗するのはとてつもなく大きなもので、思わず無理だと音を上げてしまいそうになるほど巨大な何かだと考えられる。だからこそ二言目に「拒否しても断念しない」と付け足されている。ただ[n]のキーを叩くだけでも「否」ということができてしまうとすれば、より反抗的な言葉をわれわれはどうしても期待してしまう。「頭を下げろ」「両手でやれ両手で」というセリフは、たとえば生殺与奪の権利を握っている権力者に向かって口にされたと想像するなら、単に「いやだ」といって済ませるより激しく反抗的だと見えないだろうか。もしそれが不退転と感じさせるような強い調子で何度も繰り返し喚かれたなら、いっそう激しく反抗的に聞こえないだろうか。劇的で刺激的な言葉遣いというのは、シチュエーションに依存してそこから効果を引き出す。

 

■嘘か真か、という問題はフィクションの問題

墜落する飛行機のコックピットに録音されていた声には、嘘の要素が入り込む余地がない。聞くものをして絶対の真とされ、反転することを許容しない。フィクションかノンフィクションかという問題は、舞台の上でしか問い得ない問いである。取るに足らないようなつまらない言葉だと思っていたものがじつは真実の声だったのだという反転は虚構の板の上で繰り広げられるべき内容だ。だからそれを見せるために真実を舞台上に引きずりあげる。そこにフィクションの功過がある。誰にも知られないものがあるとすればそれは存在するといえるだろうか、というのはシチュエーションに依存する者の言い分だ。
われわれに見えるのは地面に置かれた裏向きのコインであるにすぎないとしたとき、〈だから〉オモテが見えないけれどオモテはあるとするのか、〈だけど〉オモテが見えないからオモテはないとするのか、これをコインをひっくり返さないままどちらのスタンスをとるか決めろと命令されたら、どちらを選ぶにしてもその決定はフェイクだという疑いを払拭することはできないはずだ。これがフィクションが落ち込む袋小路である。

 

■真実とは何か

本作フェイクスピアでは、フェイクと聞くとついその反対側を覗き込もうとする我々の習性をうまく突いてきた。

ポスト・トゥルースという言葉はトゥルースに対する無謬の信頼を感じさせる。真贋にこだわった先にトゥルースは存在し得ない。信頼という以上、それは無謬であるべきだともいえる。「頑張れ頑張れ」「気合を入れろ」というのを笑わないと決めたからには、こういった無謬性についても「素直だ」「率直だ」「真率だ」などといなしたりしりぞけることはできない。
真実はいつも一回だけ。真実には一回性がつきまとう。それにもかかわらずその一回を繰り返そうとするのは真実に対する反抗ではなくて何だろうか。
ベストテイクを選び、それを「真実の一回」とする映像表現とは別様の、繰り返すことで生まれるリアリティ。それに耳を傾け、目を皿のようにして見つめ、一緒になって言葉の意味する意味を理解しようとすることが真実というシチュエーションに抗うことにつながるのだ。

思いと声のあいだには相応の距離がある。フィクションであるとないとにかかわらず、ドラマであれドラマならぬドラマであれ、その前提のもとで話は進んでいく。けれども、声とは言葉であり音である。すでに聞き届けられてしまった思いである。思いから声への距離はときにたどり着けないほど遠く離れていて、声から思いへの道には左右いずれかの分岐がある。順走するにせよ逆走するにせよ、真実ではないものの手助けを得なければならないときがくる。そんなときに下駄を履いても走りにくいだけだろうから、街にはスニーカー、山道にはトレッキングシューズ、フットサルコートにはフットサルシューズと、場所に応じて履き分けできるほうが望ましいだろう。

 

■役者について

高橋一生橋爪功はとにかく存在感抜群である。白石加代子も強い演技で、この芝居でもっとも重要な役を難なくこなしている。

川平慈英は上記3人の軸の太さにつぶされない粒立った存在感で、伊原剛志とともに主軸との対立関係から協働関係に移行したときの心強さには少年漫画で倒した強敵が仲間になる展開を思わせる。前田敦子野田秀樹はフィクション度合いの強い役をそれぞれのやり方で効果的に演じていた。この二人の声が生の声・肉声という意味ではもっとも印象的だった。村岡希美はとにかくスムーズで、おそらく演劇ファンは彼女をMVPに推すだろう。

私は高橋一生が主演するということで公演に興味を持ち、橋爪功の出演を知りチケットを買うことに決めた。12000円というのははっきり言って高価すぎるが、公演を知ったタイミングで幸運にもリセールチケットが一枚見つかり、橋爪功の声が聞けるならと思い、[購入する]ボタンを勢いよく叩いた。望み通り橋爪功の声を存分に聞けただけでなく、公演の顔でもある高橋一生の華々しい立ち居振る舞いを目にし、淀みないセリフ回しを耳にできたのは望んだ以上の結果だった。しかも高橋と橋爪の掛け合いがふんだんに見られるのだからまさに望外……。とまあ、12000円も支払ったのだから良いものを見たに違いないと思い込もうとするのも手伝って褒めすぎのようになっているが、実際満足できる出来だったと思う。すごいものを見たという感覚が今も残っている。

とりわけ高橋一生の退場がすごかった。私が見た回ではカーテンコールが3回起こり、最後の1回で高橋一生がバンクを上り奥側へと消えていったのだが、この退場の仕方、こちらに向けて最後手を振る高橋一生の消え方は本当に美しかった。本編で入退場を見せない演出をしていたことで消えるさまがより際立ったのだと思う。