だから結局

So After All

ピンチョン全小説を読んだ感想

映画の感想を書くときにとくに注意しなければならないのは、結末に関わる重大な出来事を映画未見の読者に知らせないようにすることだ。そういった配慮を欠く文章は映画ファンからは評判が悪い。それも単に悪口の対象となるだけでなく、深刻な倫理観の欠如とみなされ、罪人扱いを受けることもしばしばである。
かくいう私自身、これから見ようとしている映画の結末付近に仕掛けられた大仕掛けを公的な場所で何の配慮もなく言い立てる言表に出くわしたなら、顔をしかめ、舌打ちをしながら、当のアカウントの凍結を願って管理者に「通報」するにちがいない。
そして、私は上のような道徳規範を内面化しており、作品について何かしらの感想を言おうとするときには結末付近の出来事を注意深く避けながら、言えることだけを言おうとする。そもそも何か言いたいことがあるといっても、抽象的な印象のことがほとんどだから、本来であればとくに問題は起こらない。しかし、何かが伝わるようにと考えたとき、言うなれば川向こうに到達するために飛び石を踏んでいくことを考えた場合、問題が発生する。物語における印象深い出来事というのは結末付近に集中することが多く、何も考えずに出来事を引いてこようと思えば、結末付近の出来事に当たる確率が高くなる。
そうならないように配慮していると、書きたいことがしぼんでいくというのがピンチョンの小説についての感想を書こうとしたときの個人的な問題だった。誰でも読めるように感想を書こうと思うなら、ピンチョンを読んでいない人のことを無視するわけにはいかない。その配慮が最終的に向かうのは本文を読めという当たり前の結論であり、その結論は、読んでいる私にはもちろんのこと、読んでいない人たちにとっても自明である。しかし、ピンチョンは特権的な読者を要求するたぐいの作家であることは明らかだ。誰が読んでも面白いのは間違いないが、読んでいなければ面白くないし、誰でも読めるというものでもない。しかもそのハードルは低くない。学業や仕事で忙しい人にはまず無理である。見るべきテレビ番組や動画に囲まれている人にも難しい。意識的に忙しさを回避して、そのうえ無数の刺激的なコンテンツを制限する必要がある。さらに、本好きでも別にかまわないが、何よりも本が好きというタイプのいわゆる「本の虫」もピンチョン読者にはむいていない。
読者になれない人たちも、もし時間さえあればピンチョンを読むことができるし、必ずピンチョンを読んで面白く感じるはずだ。だが、現実には時間がないのだから、現実として彼らはピンチョンの読者にはなれない。だから、忙しい人、楽しいことがいくらでもあって消化できないという人、本を読むのが何よりも楽しいという人に向けてピンチョンの感想を言うのは無駄だと考えるに至った。暇になろうと苦心している人、今知っている楽しいことだけでは満足できない人、そして、本を読むこと以外にも楽しいことがあるけれど、そういった楽しいことをいくら積み重ねても本を読むことの面白さとは引き換えにできないということを知っている人に向けて、ピンチョンの感想を書こうと思う。私の考えでは、そういう人はすでにピンチョンの本を読んでいるはずなので、感想を言うことで自動的に読書会の体裁をとることになるだろう。
読んでいる途中の人も対象である。私は全小説を読み通したばかりだが、『V.』、『ヴァインランド』、『競売ナンバー49の叫び』、『逆光』以外はまだ再読していないし、再再読したものはない。ピンチョンの本は再読することが基本であり、そう考えると、たいていの読者は読んでいる途中とみてまず間違いない。また、現時点で私はまだ全作品を再読していないが、全作品を再読した人は再再読するべきだという意見を持つだろうことを比較的簡単に予見できる。まだ何作か読み残している人も、ピンチョンを精読するためには重ね読みするしかないと、2、3作読んだ時点で気づくはずだ。こういうノウハウを見つけていくこと自体がわれわれ暇人の楽しみだから、これは重大とは言わないまでもそこそこのネタバレになるかもしれない。
全体的な印象として、ピンチョンはよくユーモア作家だと言われる。読んでいるとそれはそのとおりだと思う。ピンチョンについて書かれた文章というのは数少ないので、そういったもの(解説のたぐい)で何回もユーモア・ユーモアと言われるうちに、知らず識らず読み方に影響を受けて、笑おうという心構えで読もうとすることも、とくに最初の方に起こりうるだろう。そして、21世紀の日本では笑いの文化がとくに発達しており、10秒足らずで爆笑できるコンテンツで溢れているから、そこを起点に受け取ろうとすると勝手が違うと感じることもあるかもしれない。いわゆる「お笑い」ではないユーモア、「お笑い」だとしても極端に広義の、ワイドなそれを想定するのが良いだろう。
私が思うにピンチョンは熱い。人の眼差しをストレートに描ける作家だと思う。それは瞬間を捉えることにおいてもそうだし、ある程度の期間(スパン)を指差すことにおいてもそうだ。瞬間の熱だけではなく、冷たさや憎しみ、苦悶、馬鹿らしさ、日々の暮らしを余さず指差したうえで形成されているひとかたまりの熱。そういったものをピンチョンは頁のうえに表現している。その熱は、人がいて、その人とは別の人がいて、そのふたりのあいだで交わされる視線のやり取りのうえに集約される。そういった眼差しのやり取りは、場所を超えることもあれば、時間を超えることもある。私が過去の過ちを反省するときに自分自身に向ける眼差しは時間を超えたものであるだろうし、そういえばあの人は今どこで何をしているのだろうとふと目を上げるときの眼差しは場所を超えたものだ。そういう眼差しのやり取りのひとつひとつに、熱がこもっているように感じられる。そこまで熱くない、熱が高いとはいえないやり取りも当然あるのだが、それらにしても、目立って熱いやり取りとまったく異質の別物として描かれてはおらず、あくまでも両者は同じ条件の場所にある。平熱にも熱があるという当然のところを疎かにせず、むしろそこを強調しない形で繰り返し続けるところにピンチョン特有の射程幅がある。同じ時、同じ場所での眼差しのやり取りと、ギャップのある眼差しのやり取りを同一平面上に置くというだけで、すでにいくらかピンチョン的である。さらに、熱いやり取りとそうでもないやり取りとを同じまな板の上で扱うというのが際立ってピンチョン的なところだ。
しかし、すべてを平等に扱うということではない。むしろギャップがあればそこが強調されることは多い。点いているときと消えているときのコントラストは一切曖昧なところを持たず、それにもかかわらず/そうだからこそ、境界がわからなくなっていく。ふたつの状態が同じ場所で起こっているのだと明らかになることで、すべてはたまたまのことであるという感じが強まる。それを終わり(エンド)に向けて見るなら、関心事は点いて終わるのか消えて終わるのかというところに集約されるが、どうにかしてそれを収束させないように、一生懸命はぐらかしているようにも見える。
ピンチョンには偏執的なところがあり、細々としたものを描かずにはいられないという意見には賛成できない。細々としたものというのは細々としたものとして扱われるべきではないというのは当然のことだから「細々したもの」と言い表すべきではないので、前提の言葉遣いから食い違うのだが、言い分を汲むために百歩譲っても、描かずにはいられないというのは当てはまらない。読めばわかることだが、必要だから描きこんでいるまでだ。作品の要請に従っているという意味内容を示そうとして同じことを「描かずにはいられない」という言い方で言おうとしたのだとすれば、外見はともかく中身には納得できる。偏執的なところがあるというのはそのとおりだが、それにしても、敏腕弁護士を指して「あいつは弁が立つ」とコメントするようなものだ。
なぜ描きこむことが必要なのか、というのをはぐらかすためだと見るのは、エンドに向けての収束に手を貸すことだ。だから単純であることは控え、そうは取るまい。反抗的態度を取ることで権力がその力を発揮することに手を貸したくないと思う。点いていることと消えていることを二分法として捉えることも、同じ理由からやらないでおきたい。しかし、そこにはこれ以上ないほどはっきりしたコントラストがあるし、私はそれをごく単純に見てもいる。
終わりといえば『重力の虹』の終わり方は独特で、読み終えてしばらく経つ今も、いまだに意味がわからない。『魔の山』のハンス・カストルプは、その後どうなったのかわからないように描かれるが、タイロン・スロースロップの場合、同じようにその後どうなったのかわからない描かれ方をし、しかも「その後」がいつの時点から「その後」となり、それ以前がどこにあるのかがわからない。いつの間にかカメラがスロースロップを写すことをやめている。巻き戻して最後の出演カットがこれだと確認することはできるのだが、そこに終わりの雰囲気はない。準備段階でも似たような事態が起こっており、ターンティヴィがいつの間にか消えているかと思えば、同じようにしばらくその名前を見なかったパイレート・プレンティスはあっさり再登場する。過去の例から敷衍して考えると、スロースロップが消えたのは今回たまたまのことに過ぎず、もう一度読めばひょっこり姿を現わすのではないかと思わせる。書かれた文章、なかでも紙に印刷された文章というのは、生ものではなく確定的な性質を持つ。そのときどきの気分にあわせて変更がきくものではない。『重力の虹』の分量に圧されて、曖昧な印象のポジションにある箇所、うろ覚えの領域というのは、例外的にやや生ものめくが、それにしても再読すればするほど確定していく。それをしたくないと思わせる暗いところが『重力の虹』にはあり、その重みの感覚は読んだものにしかわからない、共有不可能な、まさに小説を読む価値そのものだといえるだろう。ある種の娯楽には、それ固有の、替えが効かない面白さの質感を伴うものがある。それは端的にいえば言語化不可能ということである。たとえば、サッカーをしていて自分の右足でボールを蹴って得点したときの感じというのは、記述によって想像できる部分もあるだろうが、その質感というところまで感じ方を味わおうとすると途端に言語化不可能になる。わかりやすいと思ってサッカーの得点シーンを例に挙げたが、質感というところに焦点をおけば、一回一回の散歩も同じである。それぞれに固有の言語化不可能な質感を持つ。その言語化不可能な質感を他ならぬ言語の構築によって成り立たせているのだから、それだけでも『重力の虹』には読まれる価値がある。こう見るとまるで不可能が可能になっているかのようだ。しかし、不可能は可能にはならない。『重力の虹』を読むことでそれもまた明らかになる。言語化不可能なものがあり、それが言語で構築されているのを知る。感動して感想を書こうとしてみると、その魅力を違う形に置き換えることができないことがわかる。『重力の虹』は塊(マッス)なのだ。それをモノリスだ、墓碑だ、悪ふざけだ、芸術だと、好きに解釈することはできるかもしれないが、その解釈でマッスを切り分けることはできない。
キリンにかわいく見える距離があるのと同じで、人物には滑稽に見える距離がある。ピンチョンはその距離を把握し、主人公にその距離でカメラを向ける。動き回る主人公たちのあとを付かず離れず追いかける。そして、人物の声について、上等な小説であればやらないような内心の発言、心の声、独白、ときにはテレパシーのたぐいも禁則にしておらず、そのため禁を破るという気負いもなく、こだわらずに喋らせる。さらに、生きた人間だけが喋るわけではないというフィクションにおける常識をわれわれに思い出させてくれる。それらのあり方というのは、一部の例外を除いて現実にも負けず劣らず粗雑である。間違っても純文学と呼ばれるようなものではない。どちらかといえば雑文学だ。
呼び方はともかく、尋常の意味では上等な小説ではなく、どちらかといえばピンチョンの小説は下等である。先にピンチョンは熱いと言い、ストレートにやり取りを描くと言ったが、これもものの見方を「上等か、下等か」というあまり上品ではないところにチューニングすれば自ずとそうなることだろう。上品さにこだわっているような暇がない忙しい人からすれば、とにかく延々と続く、頁をめくってもめくっても終わりが来ない、しかも下等な小説ということになるから、その意味でもピンチョンの小説を読むことはまったくの無駄でしかない。忙しければ忙しいほど、時間がなければ時間がないほど、ナンセンスの度合いは高まっていってほとんど際限がない。とにかく暇であることが、ピンチョンの読者になるための第一条件だということは再度確認しておくべきだろう。具体的に言うなら、『重力の虹』を読み終えた段階で、何に優先してでも他の作品を読みたいとならなければピンチョンは見限ってしまって構わない。ただし、『重力の虹』にいきなりチャレンジするのは止めたほうが無難だろう。『スローラーナー』『ヴァインランド』『V.』で感じをある程度掴んでから挑戦するほうが間違いは少ないはずだ。そんなにたくさん読む時間ないよという人は、まあ普通はそうだと思うが、べつにピンチョンは読まなくても良いと思う。何かを横目に感じつつ、自分がやるべきだと考えることに時間を使うのは悪いことではない。脇目も振らずという直進が一切の倒錯なく美徳だと感じられるとすれば、この意見は肌に合わないだろうが、もっと漫然といろんなことを楽しみたいと考える人には、視野の外に出たり入ってきたりする何やかやを、しっかり見据えるということをしないまでも横目に感じるというのは、それはそれで楽しみの種にもなろうものだ。
ところで、ピンチョンは熱いと言ってもあまりピンとこない人もいるかもしれない。ピンチョンと言えばとにかくクレバーで、というのはたしかにそういう一面もあるけれど本質はそうじゃないと私が感じているように、ピンチョンと言えば熱いと言うこともまた、別の人からすれば、たしかにそういう一面もあるけれど……、ということになるだろう。ピンチョンの『V.』はひとつでも、『V.』読者はひとりではないから、それは当然のことだ。それに加えて、そもそもの文章量が多く、多彩であるから、どこに注目するかで形容詞は変化するだろう。大方の一致するところにユーモア作家としてのピンチョンがいるような気がしているが、かといって、ピンチョンは誰よりもシリアスな作家だと誰かが言ったとして、それを無碍にできる人はいないはずだ。ピンチョンの本質はユーモアだと感じているにしても、いや、おそらくそう感じるからこそ、ピンチョンが誰よりもシリアスだという意見を一笑に付すことができなかったりするのだ。誰が誰をでもいいから、誰か人間を評する時に「ギャグを言うから真面目じゃない」と聞こえてきたら、そんな意見に聞くべきものはそれ以上ない。シリアスだということ、ユーモアがあるということは相反する特徴ではない。シリアスであるようにとの調整の結果ユーモアを弱めよう、あるいは、ユーモアを見せるためにシリアスを抑えようとするのは、ひとつの方法にはちがいないが、ピンチョンのやることではない。立ち現れてくる実感を強めれば強めるほど、シリアスともなればユーモアを感じさせもするような、そこを増やせば自動的にすべてが増えるというメーターがあって、とにかくそれを増やすことに意を砕き、しかもそれに成功しているようにしか見えないケースが稀にあって、それを現実感という言い方しかできないようでは仕方がないとは思いながら便宜上そうしておく「現実感」の強度が、ピンチョンにおいては半端なく高いのである。
私がピンチョンは熱いというのは、ピンチョンの小説のこういうところを読んでそう感じるという具体的な場面を引用するのが良いようだ。ピンチョンの小説から、よりピンチョン度が高い箇所を抜き出すというのは、どこを切っても金太郎が出てくる飴のように、それはそうだという結果にしかならない。しかし、そこを切り取りましたか、というピンチョン読者の声がすでに幻視されている以上、私はその声に忠実になって、ちょっと駄目かもわからない量の引用をしていこうと思う。
まずはそれぞれの小説の書き出しから。本当は、書き終わり即ち結末最後、オーラスの文章も引用したいところだが、それは控えておく。

 

 

V.

 

一九五五年のクリスマス・イヴ。聖夜にベニー・プロフェインがたまたま通りかかったのが、ヴァージニアの軍港の町ノーフォークだった。黒のリーヴァイスを穿き、スエードのジャケットを着込んで、スニーカーに特大カウボーイ・ハットというペニーは、センチメンタルな衝動にはめっぽう弱い。さっそく懐かしの〈マドロス墓場(セイラーズ・グレイヴ)〉へと足を向ける。前に乗っていた駆逐艦仲間がたまり場にしている、イースト・メイン・ストリートの居酒屋だ。

 

 

メイスン&ディクスン(M&D)

 

雪玉がすうっと弧を描いて飛び、納屋の壁に雪の星を鏤め、いとこ達の体も雪塗れ、帽子はデラウェアの川から吹付ける風の中へと飛ばされる、――橇を家に入れて、滑走部(ランナー)は丹念に拭いて脂を塗り、靴を奥の廊下に仕舞ってから、靴下を履いた足で広々とした台所へ下りてゆけば、朝からざわざわ忙しないことこの上なく、各種各様の釜や煮込(シチュー)鍋の蓋がコトコト鳴る音も合間に挟まって、薄皮焼菓(パイ)の香料、皮を剥いた果物、牛脂(スエット)熱した砂糖等々の香りが振り撒かれる、――子供等は一瞬たりともじっとしておらず、捏ね物を入れた鍋に匙(スプーン)を突っ込みぴしゃぴしゃ調子好く叩く隙に、こっそり味見してから、この雪深い待降節アドヴェント)のあいだ毎日午後そうしてきたように、家の裏手の心地好い部屋へ向う。

 

 

競売ナンバー49の叫び(競売49)

 

ある夏の午後、タッパウェア・パーティから帰宅したミセス・エディパ・マースは、フォンデュの中にたっぷり入ったキルシェ酒の酔いもまだ醒めやらぬ頭で、自分が、このエディパが、ピアス・インヴェラリティの資産の遺言執行人(エグゼキュター)――女だからエグゼキュトリス?――に指名されていたことを知った。インヴェラリティといえばカリフォルニア不動産界の超大物。お楽しみの時間に二〇〇万ドル無駄にしたこともあったけれど、それでも整理分配するとなれば、お飾りの執行人というわけにいかないのは明らかだ。

 

 

ブリーディング・エッジ(BE)

二〇〇一年の春分の日、マキシーン・ターノウ――今なお「レフラー」という姓の方が自然に浮かぶ人もいる――は、いま息子たちと学校へ向かっている。たしかにもう付き添いのいる年齢ではないかもしれないし、マキシーンがまだそれを認めたくないだけかも。でもたった数ブロックだし、どうせ仕事場への途中だし、楽しくてやってるんだからいいんじゃない?

 


問題意識を持つ、という言葉がある。それは問題に光を当てて、ここに問題があると指差す行為である。どんなに大きい問題であれ、問題意識という以上は「何か全体」から切り出してきた何かである。そうあらざるを得ない。そうあらざるを得ないことを潔しとしないで、そうあることがないように、「何か全体」のことだけを感じていようとすると、それは漫然とした感じにしかならない。これは開いていく方向である。一方、文字を尽くせば尽くすほど、書かれた文字は条件の限定になっていく。これは閉じていく方向である。文字を尽くせば尽くすほど開いていくように感じられるとすれば、それはこの大まかな方向性を逆行していることになる。
たとえば「人物Aがいる」。そこから分かるのはAは人だということだから、その文章の分だけAは限定されている。このように、実在する実在しないにかかわらず、Aについて何かを書けば書くだけ、Aは限定的になっていく。記述を矛盾なく積み重ねていけばそのうち自立だってするかもしれない。記述にはそういった力の向きがある。記述すればするだけAの輪郭は固まる。一方、記述を増やしつつAを限定させないためには、新たにBを増やせばいい。ピンチョンがやっているのも基本的には増やしていくことだ。そのことによって開いていくイメージを持たせる。もっと言うと漫然とさせたり、雑然とさせたりする。研ぎ澄まされるというのとは正反対の営みだ。問題意識を持つことが、問題の解決への一歩目だとすれば、逆方向への一歩だと言えるかもしれない。やるべきことのある人が読んでいい小説では土台無いのだ。
やるべきことのない人が、たまにむきになって熱くなったりすることがある。飲まないでいい量の酒を飲んだときなどに、言わないでいい言葉を引き連れてやってくるその熱は、みっともなさの代表に挙げられるだろうが、ピンチョンの小説のなかのある部分は、確実にその延長線上にあるものだ。それを「人間らしさ」などと言い飾ってはならない。そうした瞬間、みっともなさはピンチョンとは決して交わらない地点にまで昇りつめる。愛すべき、守るべきスタンスになって、やるべきことが開始する(往々にして、翌朝には頓挫する)。みっともなさを意識するだけでも、熱は引いていく。仕組み上、引いていかざるを得ない。自らの駄目さ・いい加減さ・みっともなさを意識していない人物を登場させ、活躍させられるのが、小説の強みである。小説には、十分に近い距離でそれらをきっちり描出しつつも、自己言及から離れることが形式上可能になっているのだ。
やるべきことがなく、たまに熱くなってしまうというのは、もちろん私のことである。しかし、そう言った途端に引いていく自己言及のマジックがある。みっともないのは私だったとしても、それを言うのは私であってはならない。そうすることで失われるものは大きすぎる。大きすぎるといっても全然小さい話なのだが、「逃した魚は大きい」という言い回しを借りると、それは「逃した魚が逃した瞬間大きくなった」というようなことだ。(もとの言い回しにもそのニュアンスはあるからそのニュアンスを強調した表現だ。)とにかく、当たり前のことのようだが、やらないほうがいいことはある。そういうことには、下手に触ろうとせず、やらないまま放ったらかしておくのが無難だ。

 

重力の虹 85


一日は熱い一杯とシガレットで始まる。折れかかった脚をロジャーが麻紐で結わえてつくろった、がたがたのテーブルでのひと時。言葉の少ない、ふれあいと見つめあいとほほえみあいと、別れをののしる時間。周縁的(マージナル)な、ひもじく、寒々とした、でも見つかってしまうから火も焚けずに震えている時間。でもこの時間を保ちたい。これを保つためならプロパガンダが要求する以上を引きうけてもかまわない。ふたりは愛の中だ。戦争め。ファック・ザ・ウォー。

 

本の背表紙が光ることがある。何ルーメンで光るので? と訊かれても応えようもないが、それでも現実に、図書館などの本がたくさんある場所で、特定の本は光を放つ。それは背表紙に蛍光塗料を塗っているからではなく、本に書かれてある内容、つまり中身が外見である背表紙を光らせるのである。しかしもちろん、書かれてある内容を知らなければ光らない。内容を知る方法はいろいろあるが、最も有名なやり方はそれを読むことだ。上の文章も同じで全体を読んでいないと光らないのかもしれない。それでも、私には光って、少なくとも浮き上がっては見える。そういうふうに見えないと思われるのが正直のところ一番堪えるが、まあ仕方ない。こうやって部分を切り出すような真似はするべきじゃないということなのだろうが、私にはこれだけでも素晴らしい文章に見えてしまう以上、そうするまでだ。どう素晴らしいのかと訊かれればそれには応えられる。

 

重力 338


台所でヤカンの湯が揺れる。沸騰に向かって軋んだ音を立てる。外で風がうなっている。どこか別の通りで屋根のスレートが一枚すべり落ちた。ロジャーがジェシカの手を取って、自分の胸で暖めようとする。かじかんだ手の冷たさが、セーターとシャツ越しに、しみ込んでくる。でもジェシカは離れて立っている。彼女の震える身をまるごと暖めたい、とロジャーは思う。手足の端っこだけなんてお笑い草だ。ぜんぶに熱を伝えたい、それって望みが高すぎるのか。ハートが、煮え立つヤカンのように、カタカタ震える。
ロジャーに理解の光が射してくる。彼女がいなくなるときは、命が尽きるように、あえなく去ってしまうのだろう。

 

 

重力 1087


彼女は今もおまえといるのだ。この頃は見えにくくなっているだけさ。黄昏時の部屋に置いた灰色のレモネードが見えにくいのと一緒だよ・・・だが彼女はいるんだ。冷たく酸っぱくスイートに、飲み込まれるのを待っている。おまえの底辺にある細胞に触れ、深い深い悲しみを掻き立てるのを待っている。

 

 

インヒアレント・ヴァイス(IH)


「ドックもまた早起きして、アンフェタミンの疑剤をいっしょにひいたとウワサされるウェイヴスンのコーヒーを飲みながらどんどん過熱する会話に聞き耳をたて、今朝も沖合のブレイク・ポイントに出発しようと待ち受ける聖人フリップを観察した。過去にもそういうことはあった。陸から離れた遥か沖合にブレイクを見つけ、たいていのやつはそのためのボードを持たないかハートを持ち合わ せていないか、どちらかなのに、あえてそれを乗りこなそうとするサーファーを、ドックは一人か二人知っている。彼らは毎朝一人で夜明けとともに出かけていった。それがしばしば何年も日課のように続く。写真に撮られることも記録に残ることもなく、彼らは水の上に影を落とす。真実の白昼光の中、耐え離いほど明るい青緑色の、沸き立つような波のトンネルを五分かそれ以上サーフするために。

 

 

逆光 1012


もちろんそれは必ずしも誘惑というわけではなかった。彼女は時折ある期限ぎりぎりのところに立たされている気分になることがあった。借り物の時間に生きているという不安だ。冬をしのぎ、春になれば谷と川縁に戻り、昼も夜も馬に乗ってヨモギの茂みを抜け、驚いたキジオライチョウが雷鳴のように左右に飛び立ち、完璧だった馬のリズムが危うくよろめく。そんな生活にもかかわらず、彼女は自分の運勢を、結局戻ってこなかった少女たち、若くして身を落とした女たちのすり減った不幸な硬貨で買ったものだとしか思えなかったからだ。ディクシーとかファンとかミニョネットとかいう名前の、美人すぎて男が放っておかない娘たち、町が好きな娘たちは、若くして安酒場に勤めたり、厳寒の山の斜面に浅く掘られたすみかに暮らす羽目になったりした。その原因を作った少年たちは向こう見ずな企てに夢中で、少女のように小さなその手にしっかりと母親や子供――分水嶺の向こうに置いてきた家族――の写真を収めたロケットを握ったまま、どこかへ消えていった。女たちは安全上の理由や商売上の理由のために偽名を用いているために本性も失い、裁きの権利を与えられているらしい人々から逃れるために、今までにやってきたこと、これからやらねばならないことが神の目から見てあまり問題にならないような辺鄙な土地に行く……ストレイはここにいて、彼女らは去り、リーフが今いる場所は不明だった――リーフはフランクによく似た兄であり、ジェシーの父親であり、頼りにならないウェブの復讐者であると同時に、彼女自身の悲しい物語でもあり、彼女の夢でもあった。繰り返し見る夢、たちの悪い夢、破れた夢、叶うことのない夢だった。

 

 

M&D 307(下)


メイスンは彼女の為に復活を夢見たい。別に猟奇的なものではなく、宗教的なものですらなく、――寧ろ、気持ちの好い、綺麗な昇天。微風も爽やかな或る朝、墓石の前の小綺麗に手入れされた一画から昇ってゆく、聖ケネルムも陽を浴び、色を塗られた御婦人方の像は風に戦ぐ野の花に打たれ、やがて彼女が谷間から風の中へと昇ってゆくにつれて全ては幽霊のように霞み、サパトンの町のこざっぱりと純な輪郭が眼下に見えて、稜線は背後に退き、寒く、腐刻画(エッチング)のようにくっきり浮び上っている。この稜線が二人を、オクスフォードだのブラドリーだのから、その後に起きた全てのことから、遠ざけてくれるべきだったのに。

 

 

M&D 440(下)


「わし等何処に送り出されても、――岬(ザ・ケープ)、聖(セント)ヘレナ、亜米利加(アメリカ)、――何が共通してます?」
「長い船旅、」今や慢性と化した疲労に目を瞬かせてメイスンが答える。「他に何かあったか?」
「奴隷です。岬じゃわし等毎日、奴隷制の鼻先で暮してました、――聖ヘレナではもっとそうだったし、――そして今また此処、もう一つの植民地でも、今回は奴隷を所有する連中と奴隷に給料を払う連中との間に線を引く仕事をやった訳で、何だかわし等まるで、世界中で、この公然の秘密に、この恥ずべき核に繰り返し出会う運命になってるみたいな……。そしていつも、そんなのは他所の話だよって振りしてる、――土耳古(トルコ)の話さ、露西亜(ロシア)さ、東印度会社さ、彼方の方の話だよ、生温かい塩水と火薬の煙みたいな匂いがする所の話さ、彼方じゃ何千何万て人間が数えられもせずに殺され、住処を奪われ、罪もない連中が日々奴隷所有者や拷問者の手に落ちてる、だけどいやいや和蘭陀(オランダ)じゃあり得ないよそんなこと、英国でもそうさ、彼の愚者の花園じゃそんなの……? 何てこった、メイスン。」
「何てこった? 私が何をした?」
「わし等ですよ。わし等、王の金を受取らなかったですか? 今また受取ってませんか? かつてわし等は奴隷達に傅かれ、わしも汝も異を唱えず、今ここでも、〈線〉の南に行けば矢っ張り殆ど受容れちまう、――何処まで行けば終るんです? わし等何処へ行っても、世界中、暴君と奴隷と出会うのか? 亜米利加だけは、そういうのがいない筈だったじゃありませんか。」
「でも私達は奴隷じゃないよ、――雇われ人さ。」
「わし、この王信用できませんよ、メイスン。きっと他の誰も信用してないと思う。汝タイバーンで、フェラーズ卿が縛り首になるの見たでしょ。あいつ等、仲間だって処刑するんだ。わし等になんか、何だってやりかねんでしょう?」

 

動く側と動かない側がしばらく一緒になって、抵抗の姿勢を見せるべき事件に対して向かい合う。動く側は動く側として、動かない側は動かない側として、それぞれの対応を見せる。どちらがどうというのではなく、ただふたつのパターンがあって、それらがたまたま一緒の時間を過ごすということ。基本的にはそれだけのことだが、それだけのことでも描かれていればやっぱり励まされる。実際動くにせよ動かないにせよ、受け取るべきものは両者それぞれにある。

 

BE 604

 

「もう言うな、いいんだ、いいんだって」と言いながら、娘の顔におずおずと手を伸ばす。だがそれで許されたとはマキシーンは思っていない。自分が真実を語っていないことは自覚している。それを父が自己防衛から、または真のイノセンスから(だとしたらそれを壊すことなんか絶対できない)文字通り受けとめてくれることを願うばかりだ。そして父は受け止めてくれた。「おまえは昔からちっとも変わっていない。いつかあきらめてくれるだろうと思って待ってたよ。こだわるのはやめて、私たちみんなと同じように、いつかは冷淡になってくれるだろうと。だが同時に、とうさんはおまえにそうなってほしくない、そうならないでほしいと祈ったもんだ。学校から帰ってくるだろ、歴史の時間に、悪夢がまた一つ、先住民達のこと、ホロコーストのこと、こっちがずっと前に痛みを忘れてしまった犯罪を、人に話して聞かせはしても自分じゃそれほど感じなくなってしまったことに、おまえはまるで自分の気持ちがえぐられたかのように本気で怒りをぶつけてた。小さな手をぎゅっと握りしめながら、どうしてあんなことができるの?  あんなことして、平気で生きていけるの?  こっちは何て答えたらいいんだ。鼻紙を渡して、大人が悪いんだ、大人には悪いのがいる、お前はそういう大人にならなくていいんだから、いい人になろう。そうとしか言えないじゃないか。まったく情けない話だ。しかしな、言っておくが、あのとき親としてどう答えるべきだったか、その答えが、今でも分からんのだよ。分からなくてもいいなんてちっとも思っていないんだぞ」
「この頃は、子供たちが同じことを聞いてくる。うちの子が、同級生の、シニカルで口ばっか達者な子と同じになってしまうのは見たくないけど、でも、もしあの子たちが、世界のことを過度に心配し始めたらどうなっちゃうんだろ。その先にあるのは破滅の人生かもしれない、簡単にひねり潰されてしまうかも」
「他に道はないんだ、子供たちを信じ、自分を信じる以外。ホルストだって同じだ。なんか、よりが戻ってきたみたいじゃないか」
「今のところはね。本当は、最初から縺れていなかったのかも」
「もう一人の男だがね、こいつに花を手向けて、お悔やみの言葉を言うのはやめときなさい。そりゃ、誰か別の人間がすることだ。ジョー・ヒルも言ってるだろ――追悼するな、組織せよと。それと、おしゃれ老人から、ちょっとファッションのアドバイスをさせてもらうよ。色物を着なさい、黒は避けて」

 

 

V. 307

 

シニョール・マンティッサは、肩透かしをくらった表情だった。「それは確かかね、ヒュー? どこかで聞いたんだが、極地で寒気にさらされすぎた人間は幻を見ることがーー」
「だとしても、変わりがあるか? あれが幻覚に過ぎなかったとしても、わたしが何を見たか、あるいは見誤ったかなどはどうでもいい。大事なのはわたしが考え至ったこと、わたしが直面させられた真実だ」

 

 

もし「伝えるべきこと」があるとすれば、それそのものはそこまで長くならない。その人自身にとって、伝えるべきこととは何だろうと考えてみるとき、ほんの短い数語で十分だと思い至ることができたなら、その人は率直さを身につけていると思う。でも数語では格好がつかないから、もうすこし気の利いた形にしたいじゃないか、というのも正直さの現れだと見なせる。べつに最短距離を取らなくてもいいのだということさえ気に留めておいたなら、伝えるべきことはどんな形で伝えてもいいのだと私は思う。「長ければ長いほど良い」かどうかはわからないが、どんな場合でも、長すぎるということにはならないはずだ。どれだけ長くなったとしても、それはしかるべく伝わるはず。