だから結局

So After All

【音楽の感想】『Vanishing Cinderella』

Vanishing Cinderella

 

先日リリースされたPunch-drunk Loveの新曲『Vanishing Cinderella』を聴いた。

この時期、夜の井の頭公園の醸し出す雰囲気には、冬の終わりがけに特有の色気があるように感じられる。そんな公園散歩をしながら聴いたからかもしれないが、『Vanishing Cinderella』にはこれまでのPDLの楽曲にないようなあるメロウを感じた。

それは私にとっては角砂糖のように感じられた。四角くて、小さくて、白い。

今まで食べたことのないような新しい名前のスイーツという趣はまったく無いのだが、それでも、お茶受けのお菓子として角砂糖を出されて意表を突かれる思いをすることはあっても、今どきそれでムッとする人もいないだろう。いろいろなお菓子が並ぶショーケースにあって角砂糖を出すことの意義に、個人的には共鳴するところが多い。

MVは、個人で楽しむデートムービーというふうにも見える。洗練させるために、引き算を用いるというのは、こういったイメージ作成においてもはや常識ともなっているなかで、何も引かないという選択をすることに、そして足せるものを足していくという素朴な積み上げを行なうというところに、音楽においてもっとも必要な初期衝動を読み取らせる。そのコードは誰にでも読めるものであるはずなのだが、そこここに居並ぶ別の箱との比較によって、かなり小さな文字へと相対化されていかざるを得ない。そのことの是非について問いたいわけではない。ただ、そういうことは起こりうるし、起こりやすいということを確認しておくのは必要だと思う。

初期衝動というのはどこか寂しい言葉だ。単に衝動と言えれば良いのだが、それを失ってしまう中期・後期がある以上、初期衝動という呼ばれ方をするほかない。

とにかく角砂糖が甘かった時期があった。そのときにはプリンもクレープもパフェもマリトッツォも知らなかった。もちろん、知ってしまったものを知らないものとすることはできない。もし記憶を操作してそうできると言われたとしても、そんなことはしたくない。当然のことだ。

しかし、角砂糖など必要ないとは言えない。たとえ、これから先二度と食べないとしてもそんなことは言えない。そもそも、これから先二度と食べないとも言えない。角砂糖の味は、あれはあれで別のスイーツで代用できるものではないということは記憶のなかに明らかだ。それは四角くて、小さくて、白くて、甘い。

ひょっとするとかなり狭いのかもしれないが、限定された〈ここ〉、限定された〈いま〉に響く、特有のメロウがあるという意味で、『Vanishing Cinderella』はとくに聴くべきところの大きい曲だと感じている。

 

 

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Youtubeに載っている歌詞から、『Vanishing Cinderella』は憧れについての楽曲だということがはっきりする。

 

君を愛してるよ さらばシンデレラ

 

「君/僕」「わたし/あなた」というように、ふたりの一人称と二人称が、行ごとに、ややめまぐるしく入れ替わる歌詞からは、どうやら「僕」が「君」をシンデレラに見立てているらしいことがわかってくる。

最初、僕にとっての君というのは、ロックスターという名前を持たない属性だった。それが憧れをそのままにシンデレラと記名されることになる。おとぎ話のヒロインの名前が喩えようとしているものは色々だろうが、僕の視点からはやはり憧れということになるだろう。ここで重要なのは、この喩えはそう喩える自分自身をただちに王子様に見立てたりしないで済むというところだ。たしかによく知られたシンデレラの物語には王子様がいる。だがシンデレラには、意地悪な母親、ガラスの靴、魔女、そして王子様と、さまざまなイメージが付随している。さらにシンデレラというのは何よりもまず「おはなし」であり、十分に有名なおはなしであることから、かなり足場のしっかりした「読者」という立場がありうる。そして、読者とシンデレラの距離というものを考えたとき、心の中では近いとすることもできるし、絶対に近づけない実在・非実在の壁を感じることもできる。前者は近づく必要がないと思いなすこと、後者は近づくのは不可能事だと諦めることだが、どちらも対象を特別視することであり、対象が自分自身とは同一平面上にいないと結論づけることだ。

憧れを単なる概念上のロックスターになぞらえるのでは満足できないから、シンデレラと名前をつけるというのは、憧れをただの憧れでは済まさないための一歩のように思える。たしかに、ぼんやりしたただの凄いから、こういうところが凄い、こう凄い、とイメージを限定することは、それを把持しようとする野心のあらわれと考えられる。

しかし、この一歩目には罠がある。二歩目に繋がっていきやすいのもこの罠の若干凶悪なところで、憧れをただの憧れにしようとするのに納得がいかないから少しでもそれに近づこうとしたばっかりに陥ってしまうポケットが、ちょうどこんなふうに誰かをべつの誰かの名前で呼ぶことだ。初恋の人、運命の人、憧れの人、という呼び方が、その人をそう呼ぼうとする意図に反して、なぞの広い視点からの「あるある」にされてしまうこととも似ている。

人が人に憧れるというのは、美しいこと・心動かされることの起点になるという面があると思うから、私はそのような営為が否定し去られるのをよしとしない。ただし、自分が本当に憧れていると思うのであれば、憧れるという言い方で満足するべきではない。自分の心を動かしたものをただ特別扱いして祭り上げるべきではない。それをして平気なのであれば、憧れるということ大事な部分をなおざりにしていることだから、最初から何にも憧れないほうがまだましだ。

そうは言っても、最初から一度も罠にかからずに憧れるなんてことできるわけがない。だからこそ、われわれがこれは本当に素晴らしいなと感じさせられるときに自然に湧き上がる敬意をどう扱うかというところに、他ならぬ対象の素晴らしさが懸かってくるときがいつかくるというのを、少しずつでもいいから肝に銘じていくことはどうしても必要だ。

だんだん何も良いと思わなくなっていくか、ただ良いとだけ言ってはいられなくなるか。われわれがめいめいの憧れに対して取ることのできる中長期的なスタンスはふたつにひとつだ。心からの憧れを消し去る訣別のような強い動きができるとすれば、その動機は憧れそのものから持ち出すしかない。

あまりむずかしく考えないでも、憧れにはいつまでも憧れさせておかないような時限式の仕掛けがしてあるようにも思う。ときどきの良いと思う心に正直でいられればそれで大丈夫なように。

無理して変わらない信念にしないでも、その反対に惰性や慣性に無理に逆らわないでも、何が良いと思うかだけを見ていくように心掛ければそれでいいんだというようなことをあらためて思った。時期が来れば時期が来る。