だから結局

So After All

遊びについて

遊びについて


幼児の遊びが一線を越えると、幼児は自らの遊びに泣かされることになる。幼児は自ら泣かされることになる方向へ向かう。遊びの領域はその延長線上に危険な領域をもつ。危険な領域がない方向に遊びはない。どの場所にいてもより危険な方向に遊びはある。より安全な方向にではない。

断崖の上の丸太を歩いていたとして、その地点から遊ぼうとするなら片足立ちをしてみたり目をつむったまま歩いてみたりする必要がある。そうしないかぎり遊んでいるということにはならない。断崖の上の丸太を渡るという行動が、畳の上からはとんでもない危険であり、すなわちこれ以上ない遊びにみえたとしても、いざ丸太の上を歩く段になると、それは真面目な行動に変貌してしまう。直接生死が懸かっていれば、その変貌の速度は上昇する。もっとどうでもいい、もっと安全な行動であれば、変貌の速度は下がるので、結果的に遊びとして成立しやすくなる。

引き伸ばされた快楽が遊びとしてはより高級なのであって、切り詰められた快楽というのはその強烈さとは裏腹に低俗なものである。成立のしやすさをもって高級とし、成立のむずかしさを低俗と呼ぶのはたんに生きる営みの習いであろう。遊びというからには、主観的な、絶対というほかない快楽を追求してみてもいいはずなのに。

とはいえ、どれほど限られた一部の人しか味わえない快楽であったとしても、誰しも得られるものの延長線上にしかなく、ただ相対的に、”より絶対”であるにすぎない。解剖してみても乳幼児期の輝かしい体験の焼き直しということが明らかになるにすぎず、正確に測れば測るほど、絶対であるという度合いは下がっていく一方である。純粋さは今この瞬間にも失われていくもので、だからこそ美しいというようなことも言えば言えるものの、失われていくということによって強化された価値以上のものはもたらさないという宣言になるだけで、いずれ消えゆくものだけが持つ美しさとして語られる、陳腐なものにすぎない。ただし、月の美しさが陳腐なものであると同時に避けがたく魅力的であるのと同じで、陳腐だからといって一切毀損されることのない価値である。

誰もがほとんど一直線ともいえるほど性急に快楽を求めるのもその傍証となろう。ゾンビが人の生き血を求めることをゾンビならざる存在はなぜそんなことをするのか訝しく思いつつもゾンビがそれを求めることを奇妙だとは思わないように、ただそういうものだと考え、それに基づいてあらゆる物事を組み立てていくのも奇妙なことではなくなっていく。若い男女がいっしょにいればやがてお互いを求めるようになる、といったような言説が成り立つスピードには強烈なものがある。もっと一直線ではなく、もっとゆるやかに、もっと往還を繰り返すことで、遊びは遊びとしての性質を担保されるというのは単純な真実である。物事が求める物事の、その獲得スピードをいかにして緩めるかというところに遊びの技術がある。手に入れる側のチームに所属しながら、内側からその企てを阻止し、本気で悔しがったり残念がったり、ときには悲しさのあまり涙さえ流しながら実行する、獲得を決定的失敗へといざなうスパイ行為こそが遊びの本懐である。彼がみずからの感情を裏切る行動をあえてするときに遊びは表にあらわれる。翻ってそれは、彼の行動によって引き起こされた彼自身の感情が表に立たない遊びであるということができる。胸が張り裂けるような気持ちそのものが遊びであるが、それは決して外面化せず、本人にすら遊びとして認識されない。ふざけた行動によって駆られた激情が、その激しさが大きければ大きいほど冗談じみていくのを本人は自覚している。そこに落とし穴がある。ただし蓋付きの落とし穴で、彼がそのスペースにはまり込むことはない。手前側にある遊びの自覚にとらわれて、穴にはまり込むことはない。彼は目ざといことによって目前にある遊びを見逃す。これほどの苦しみをもたらすのだからこの気持ちは冗談ではないという素朴な実感のほうが遊びに近い。しかしその素朴さをもってしては落とし穴のある場所にまで到達しがたいこともまた事実である。ある程度まで進んだ段階でそこに到達するために必要だったモジュールをパージし、また別の段階、次の展開に駒を進め、さらにパージし、と繰り返していく中で人は別人になっていくが、それを素早くこなし、一度パージしたものであってもその時の必要に応じて取り戻し、不可塑性を回避しながら戻りつつ進むことでしか本物の遊びの実感にはたどり着かない。真偽の反転を自明のものとしながら、真であるものを本当に真であると感じること。偽りについては容赦なく切り捨てながら、真偽の反転に備えること。一貫性のなさを恥じず、かといって誇らず、覚悟すると人が言うのを聞いては彼の意気地のなさを侮りつつ尊重する裏腹な態度でアンビバレントな居心地の悪さを感じながら、都度の会話で遠慮会釈せず勝手気ままに振る舞うこと。そのように行動しながらそのように行動しすぎない。追いかけてくるものには必ずしっぽを掴ませる。絶体絶命な状況に何度陥ろうとも絶対に捕まらないこと。逃げようとするものを座ったまま見送らず、立ち上がる素振りを見せること。

 

梁塵秘抄 (光文社古典新訳文庫)