だから結局

So After All

下北沢K2で濱口竜介監督特集上映を見た

先日、下北沢に映画館ができた。

K2というミニシアター系の小綺麗な映画館で、学生の頃によく行った京都シネマの雰囲気を思い出す。

スクリーンはひとつだけというのもシモキタらしい潔さがある。演劇の劇場文化からすると、スクリーンが2つも3つもあるより、ただひとつのほうが受け容れられやすいような気もする。たったひとつのスクリーンということで上映回数が限られるなかで何を上映するかというのが重要になってくるから、こけら落とし濱口竜介を選び、さらには濱口竜介監督特集上映をラインナップしたというのも、快調な出だしになったはずだ。座席の座り心地はいいし、生地の色味もいい。スクリーンの角が取れて丸くなっているのも洒落ている。

見に行った日には平日もあったので、全席が埋まっているということはさすがになかったけれど、合計8回(9作品)見に行って、どの回もまずまずの客入りだった。

『ハッピーアワー』はすでに見ていたから見に行かなかったが、これと『親密さ』は満員で、予約しようとしてもチケットを取れなかった人もいたようだ。

 

まず最初に、濱口竜介の『うみのこえ 新地町』を見に行った。これは本当にたまたまで、下北沢に新しい映画館ができたようだからその様子を見に行きがてら、ちょうど濱口竜介特集がやっているのもこれ幸いと、ほとんど何の気なしに見に行って、結果、動揺するほどの衝撃を受けた。映画用の演技をしていない人のインタビューが、面白いのだ。「震災」という大文字のトピックがあって、それのせいでこのインタビューが撮影されているということは当然忘れられないにせよ、新聞やテレビで取り上げられるようないわゆる被災者の声とは一線を画するように思えた。

私は震災について、新聞やテレビ、インターネットでも、熱心に情報を得ようとしてこなかったから、それとの差異をうんぬんできる立場にないのだけれど、それでもこれは全然違うものだろうという直感が働いた。話を聞く人の重要性という、文字にしてしまえばただのハウツー本の一章のトピックにしかならないものの、それが実在し働いているという感じを、画面越しに、ちょっと驚くほどまざまざと感じ取ってしまった。

なぜこんなことができるのだろうという謎が、家を出たときには予定していなかったその日の上映作『うたうひと』のハシゴ鑑賞に向かわせた。これは、民話語りをしているおばあさんとおじいさんにカメラを向けたもので、これもまた、尋常ではなく面白かった。

民話語りも、それこそ’うたう’ような方言も、それを楽しそうに聴くおばあさんの合いの手も、多分それ自体に魅力があって面白いものなのだが、違う形でこれらと出会ったときに、果たして同じふうに感じ取れるだろうかという点に、非常に疑問を持たざるを得ないような感じがやっぱりあった。映画だから面白い、この映画だから面白いと、見てからしばらく経った今でもそう思う。『うたうひと』は、『うみのこえ』よりも、話を聞く人にフォーカスされていたように思った。『うみのこえ』では差し向かいで話をする「ふたり」に交互にカメラ(マイク)が向けられるような構成だったのが、『うたうひと』では、話す/聞くの配分にある程度の傾斜がついていて、話す人の配分に自ずから差があった。よく喋る人がよく喋るというのではなく、話を語る役の人がいて、話を聞く役の人がいるという役割の分担が、話を聞くということの重要性を直接的に描き出した趣があった。

かねてから聞くことにプライオリティがある私のような人間にとっては、そんなにも聞けるということに、こんなにも焦点を当てられるものかと感心しずにはいられなかった。聞くことは、本来重要なファクターにちがいないと半ば確信を持っていながらも、それをはっきりと計測するような装置も、その装置によって採られたデータもないわけで、根拠なくそう確信するしかないようなことに、はっきりと光があたっているような映画だった。いちばん良いかたちで、その人の声を聞きたいという望みが、その望みの高さが、『うみのこえ』『うたうひと』には充溢している。

それは劇映画にもそのまま導入できる観点だろう。むしろ、インタビューよりも劇映画のほうが、その方法の活動する幅は広いかもしれない。私は濱口作品の特徴を、人の顔を撮るのが上手いことだと考えるようになったが、そこにある上手さというのは、台詞であればその台詞を、表情であればその表情を、とにかく一番良いかたちで見たい・聞きたいという願望から来るものだと思う。

活き活きした顔、活き活きした喋り、活き活きした動き……、言うとどうしようもなく死に体になってしまう言葉は、やはりただの影にすぎず、その本来の姿はスクリーンに投影されている。とすれば、それはどう考えても、見たいものである。

私が濱口映画を見ながら思っていたことを言葉にすると、〈こういうのが見たい〉ということに尽きる。頭の中にあるゴールのイメージが、それを決めるときの感触が、爆発させた歓喜の喜びの迸りが、寸毫の遅れもなくやってくる。頭の中だけにあるもののそれは特権のはずだったのに、目の前にそれがあるというのが不思議でしょうがない。そのせいでかなりの動揺をおぼえているのだが、こんなに動揺することがないままだったとしても、それはそれでしょうがないし、まあ良かったんだと思っている。でもとにかく驚いた。

 

 

天国はまだ遠い

 

2016/38分 ©2016 KWCP
監督・脚本:濱口竜介/撮影:北川喜雄/録音:西垣太郎/整音:松野泉/音楽:和田春/出演:岡部尚、小川あん、玄理

AVのモザイク付けを生業とする雄三は、女子高生の三月(みつき)と奇妙な共同生活を送っている。ある日、三月の妹から雄三に一本の電話が入る。見える/見えない/見せないこと、カメラを向ける/向けられるなど、過去作とも共通した主題が現れつつ、不思議な爽快感も残す。*1

 

幽霊の女子高生とその女子高生に憑かれた男の側から、現世と女子高生の幽霊にとって現世を代表する彼女の妹を見つめ返す映画。妹が霊的なものの存在を認めないスタンスをキープしながら、男を通じて亡き姉と会話するのをセラピーと捉える柔軟さにリアリティがある。切羽詰まった思いは思いとして、現実の線引きは線引きとしてそれらが統合されずそれぞれ別個にそういうものとして取り扱うことができるというのを見るにつけ、霊的なものに対する考え方や立ち位置が、フィクションとフィクション外のあいだをしらずしらずのうちに行き来していることが明らかになってくる。

 

 

PASSION

 

2008/115分 ©︎東京藝術大学大学院映像研究科
監督・脚本:濱口竜介/撮影:湯澤祐一/照明:佐々木靖之/録音:草刈悠子/編集:山本良子
出演:河井青葉、岡本竜汰、占部房子岡部尚、渋川清彦 ほか

結婚間近の果歩と智也を祝う席上、智也の過去の浮気が発覚し…。男女5人が揺れ動く一夜を描いた群像劇。渋川清彦、河井青葉、占部房子と、『偶然と想像』や濱口作品の常連になる俳優たちが結集している。*2

 

立場と考え方の違いが鮮明になる場所がある。どこまでそれを鮮明にできるかというのは、際どいバランスを保ちつつ、積み上げていくジェンガのようだ。相手がバランスを崩して倒すのを目指していながら、結果として想像もしない高みに達してしまうこともある。このゲームを成立させるために大事なのはブロックの形だ。同じ形ではなかったとしても、こういう形をしているというしっかりした自己認識が登場人物それぞれに必要になる。人にもはっきりわかるような自己認識を登場人物全員が最初から持っているというのは考えにくいので、行動・言葉によって少しずつ当人にも気づかせていかなければならない。それプラス観客にもそれを追いかけさせないといけない。かなり難しいことをやろうとしているから、俳優の助けを借りなければ成立しないと思われる。でもこういうときに俳優がいちばん力を発揮するんだと思う。成立させるのは俳優の力量のおかげだが、その代わり、成立している以上の素晴らしい出来になっているのはすべて俳優の取り分だと見ていい。

 

 

*1:濱口竜介監督特集上映《言葉と乗り物》イントロダクションより

*2:同上