だから結局

So After All

カウントするくせ

無くて七癖という言葉もあるが、私にも癖がある。苦しくなると数を数える癖だ。これは最近気づいたことなのだが、苦しくて余裕がなくなってくると、私は何かしらの回数をカウントする。そしてこの癖は、私特有の癖ではなく、だいたいの人に共通する癖なのだと思う。

 

最近、スイミングプールで泳ぎ始めた。ある日泳ぎたくなったから近所のジムに入会して、なんとなくクロール的な泳ぎ方で、一回につき1000メートルを目標にして泳いでいる。時間がなかったり元気がなかったりする日には500〜700メートルぐらいを泳ぐ。

1000メートルを泳ぐのには40分かかる。なにせ水中では呼吸が出来ず、水上では自由な呼吸がままならないため、すぐ息が続かなくなって、25メートルの往復だけで一息入れたりしている。1000メートルというのは、25メートルプールを20往復だ。だから一息入れる回数は20回程度になる。25メートルの内訳を仔細に見ても、壁を蹴った直後の泳ぎ始めこそ、1・2・3・4、1・2・3・4、と4種類の数字を使ってカウントできているのだが、復路の25メートルの半ば辺りからは1・2、1・2と最も短いスパンのカウントをすることになる。これは腕を回す回数をカウントしていて、息継ぎをするとカウントが1に戻るというルールでカウントする数字のことだ。

それから、最初に泳ぎ始めた日からスマートバンドで泳ぐ距離を計測している。バンドの数字を見て500メートルまで来たところで、あと半分…つまり10往復か。とか、800メートルまで来たところでラスト4往復!と気合いを入れ直したりしている。

プールで泳ぎ始めてから2ヶ月以上が経った。多い週は4回、少ない週は2回で、だいたい週3回ぐらいのペースで泳いでいる。泳ぎ始めからの違いとしては、少しだけ長く息がつづくようになった気がする。

最初の「泳ぎたいから泳ぐ」精神のときに適当に決めた一回1000メートルという目標も、固定されてしまえばなんとなく毎回それを目指さないといけないような気がして、身体が疲れ始めるとそこに向けてカウントを始めるようになった。疲れていて500メートルしか泳げないような日は、ウォッチを見たタイミングで数字が「200メートル」となっていることが多い。さすがにそこから800メートルもカウントできないから、そういう日には、とりあえず500メートルまで頑張ることにしている。どれだけ頑張ってもせいぜい700メートルで切り上げる。

このカウントするというやり方は、トレーニングをする人にとっては当たり前のことかもしれない。強度を上げていくためには目標値を設定するのが有効なのだろうと、考えずとも想像がつく。

しかし、私の場合、ただ泳ぎたいから泳ぎ始めたのだ。明確で具体的な目標もなく、強いて言えば運動不足の解消になるかなという助平心があるぐらいで、それにしても第二義的な目的にすぎない。まずは泳ぐ楽しさ、というより、正確には大量の水と触れ合う体験の楽しさを味わいたかっただけなのだ。

ジムには風呂とサウナと水風呂が付いている。これらはたまたま施設に含まれていただけで、プールのついでなのだが、いざ使うと温水浴もサウナも水風呂も最高で、プールに行ってついでの温水浴を使わない日はないほど、ほぼ毎回使用している。そして毎回最高に満たされる。今も昔もやったことのあることのなかで、記憶の中の体験(回想)と今の体感とを対決させて明確に今が勝つ体験として例外的な位置にあるのが風呂である。年若いときにはここまで気持ち良くはなかった。むしろ人が風呂最高というのを聞いては、たしかに良いものではあるけど「最も高い」ではないなあと口に出して意見したり、心のなかで呟いたりしていた。しかし、今ではもう「最も高い」体験のひとつに数えないわけにはいかないし、これら無しには冬を越せない可能性さえある。それほど風呂・サウナ・水風呂のセットは気持ちいいものだと知ってしまった。

そんな完全に気持ちよさのためだけにあって、トレーニングでもなければ健康のためでもないサウナ浴でも、気づけばカウントしている自分を発見し愕然とした。サウナの中には12分計という1分で一周する長針と12分で一周する短針からなる特殊な時計が設置してあるのだが、気づけばそこをチラチラ見ている。熱くて苦しくなってくると経過時間をカウントしないではいられないのだ。

私は大まかには心の赴くままに行動していると思う。しかしその内実をつぶさに見ていくと、それは細かい数字にかなりの程度侵食されている。

仕事だったり、社会的な行動において数字に影響を受けるのは仕方がないと諦めている。最近になって在宅仕事が増えたとはいえ、定時までは自由が制限されるし、始業時間を過ぎて寝ているわけにもいかない。結局、それが働くということだと思って受け容れている。しかし、自分が自分のためにやることに数字が持ち出されるのは違う。そして、仕事において数字に縛られているという意識があるからこそ、仕事以外の部分では自由に、数字から離れていたいという気持ちがある。

都会生活では時間についてもかなり鷹揚でいられる。30分ほどの余裕を持ってさえいれば、電車の時間を気にする必要はない。信号待ちするのと大して変わらない時間待てば次の電車はくるし、都心のどこに行くにしても30分以上かからない。早く着きすぎると思っても、どの駅にだってスタバはあるし、普段使わないような迂回路をとることで時間調整をしてもいい。

 

頭の中に数が発生するのはある程度自然なことだと受け容れるべきなのかもしれない。そして、回数のカウントだったり、数値を出すというのは、それ自体考えていることの証明になるものではなく、むしろ考えないために、考えずに頑張るために必要なことなのだと思う。だから、つい数えてしまうのも、つい余計なことを考えてしまうのと同様、大目に見るほうが良い。

一番わかりやすくて簡単な「理」は、数のカウントだ。1の次は2、2の次は3…、というのは混沌状態を立て直そうとするときにもっとも使用されることの多い、基本の秩序体系だろう。混沌状態を呼び込むためにわざわざやるようなことがあると思うが(たとえば映画を見ることなどは、日常という継続に対して非日常を持ち込み継続を中断することだろう)、それによってわざわざ持ってきた小混沌を、すぐに秩序立った感想に落とし込もうとするパズル遊びも、どこか数のカウントに近いものがあると思う。認知的な不協和に耐えて、うまくカウント出来ない状態を楽しむというのは、人にとっては娯楽となっても別の人にとっては苦痛でしかないということもあるだろう。遊び方というのは間違いなく個人の嗜好によるから、とにかくすぐにカウントしたい、むしろ作品という形で制御された小混沌を、自分なりのやり方で秩序立たせることを、それこそパズルを解くように楽しみたいというのは理解できる。私から見て理解がむずかしいのは、自分でうまくカウントできないから他人のカウントを見て安心したいと考えている人のことだ。美術館の利用においても同じような人を見るが、彼らは入場料を払うのが楽しいのだろうか。

考えてばかりでは駄目なのと同様に、数えてばかりでは駄目だとも思うので、プールでも適当に疲れるまで泳いで、サウナでも12分計に背を向けて、それらを楽しめるようになる方向に、いい加減になる努力が必要だと思った。その努力が実を結べば、おのずと仕事や社会的な行動にも〈いい加減さ〉を持ち込めるだろう。それは截然と区別された線がうすくなるような形で、峻別がつかなくなることを逆側から言い表したものになることだろう。許されないと思っていることが実際には許される、どころかそもそも注視されていなかったということに気づいて後、その線の内側にとどまり、オーバーラインしないように注意していることはできないと思う。

そして、おそらくスマートバンドはその役に立つ。自分で数の管理をせずに、ただ身に付けているだけで勝手に計測してくれることで、最初こそ計測された数値に関心を持つことは避けられないにせよ、だんだん新奇性がなくなるにつれ、ガジェット的関心のうすれとともに計測された数値への意識もうすれていくような気がしている。時間が、新しいものへの興味関心とともに数えられた数を持っていってくれるような気がする。

気になるときには気にして、それ以外のときには気にしないというのも大事なことだ。気にしないように気にしないようにと、とにかく気にしないでいることに気をとられて、それで気疲れというのではないが、反動で、何も気にしないで行動してしまうというようなことを私はいまだにやってしまうから、そのガス抜きの方策として、こういった道具の使用は有効だと思う。