だから結局

So After All

サハリン島のクラシーヴイ

 
海岸と監視所の間の地域には、線路と、今書いた自由村のほかに、もう一つ名所がある。それはドゥイカ河の渡し場だ。水面にうかんでいるのは、ボートや渡し舟の代りに、真四角な大きい箱だ。この種のものではたった一つしかないこの舟の船長は、生国不明のクラシーヴイ[美男子の意味]という労役囚である。年はもう七十一だ。せむしで、肩胛骨がとびだし、肋骨は一本折れ、片手の親指がなく、かつて受けた鞭と棒の傷痕が全身にある。白髪はほとんどないのだが、髪が色あせたような感じで、眼は碧く澄み、善良そうな明るい眼差しをしている。ボロをまとい、素足のままだ。実に身が軽く、饒舌で、笑うのが大好きだ。一八八五年に彼は《浅はかにも》軍務から脱走し、生国不明と自称して、浮き草暮しをはじめた。やがて逮捕され、彼自身の言葉によれば、バイカル地方のコサック軍に送りこまれた。
「その時に、つくづく考えましてな、」彼はわたしに話してきかせた。「シベリヤじゃ、地下にまで人間が住んでいるんだ、とね。思い立ったが吉日で、早速チュメーニから街道づたいにズラかったんでさ。カムイシロフまでたどりついたところで、ふんづかまって、軍法会議ですよ、旦那。懲役二〇年に、笞刑九〇回というわけでね。カラーの刑務所内に送りこまれて、そこでこの通り鞭を喰らったあげく、今度はこのサハリンのコルサコフ送りになりましてね。わたしゃ、コルサコフからも仲間といっしょに脱走したんだけど、ドゥーエまで行くのがやっとでしたよ。そこで病みついて、もう一歩も動けなくなっちまったんでさ。仲間の奴はブラゴヴェシチェンスクまで行きつきましたっけ。今度で二度目の刑期を勤めあげるわけですが、このサハリンには都合二十二年暮してるんですよ。わたしの罪なんざ、あとにも先にも、軍隊を脱走したことだけなのにね。」
「今頃本名をかくしているのは、どういうわけ? 何の必要があるんだい?」
「去年、お役人には名前を言ったんですよ。」
「そしたら、どうした?」
「別に。『照会してる間に、お前の方が死んじまうだろうさ。今のままで暮してるこったな。何のためにそんな必要があるんだい?』そのお役人はそう言うんですよ。それももっともな話でね、間違いありませんや……どのみち、長い生命じゃないんだし。それでもね、旦那、身内の者はわたしの居所を知りたいでしょうよね。」
「あんたは何て名前なの?」
「ここでの名前は、イグナーチエフ・ワシーリイです、旦那。」
「で、本名は?」
クラシーヴイはちょっと考えてから、言った。
ニキータ・トロフィーモフでさ。スコピンスキイ群の出ですよ。リャザン県の。」
 わたしはその箱で河を渡りはじめた。クラシーヴイが長い竿を河底につっぱると、そのたびに、痩せこけた骨だらけな身体がはりつめる。楽な仕事ではない。
「大変だろうね?」
「何でもありませんよ、旦那。だれ一人、首根っこをつまんで放りだす者がいないんですもの、楽ですよ。」
 彼は、二十二年間に及ぶサハリン生活を通じて、ただ一度も鞭打たれたこともなければ、独房にぶちこまれたこともない、と話してきかせる。
「それというのもね、木を伐りに行かされりゃ、行くし、ほら、この竿を渡されりゃ、受けとりもするし、事務所のペチカを焚けと言いつけられりゃ、すぐに焚くからですよ。服従しなけりゃなりませんものね。正直のところ、ありがたい暮しでさ。おかげさまでね!」
 夏のうち、彼は渡し場の近くのテントで暮す。テントには、ボロや、大きなパンや、猟銃などがおいてあり、息づまるような、酸っぱい匂いがこもっている。猟銃の用途をたずねると、泥棒と山シギを射つんでさ、と答えて、笑うのだ。銃はこわれており、見せかけにおいてあるにすぎない。冬には、薪拾いに商売がえして、波止場の事務所で暮す。一度わたしは、彼がズボンの裾を高々とたくしあげ、筋ばった紫色の痩せ脛を見せながら、中国人と網を曳いているのを見かけたことがある。網の中では、どれも本土の川カマスくらいの大きさのマスが、銀鱗を光らせていた。わたしが声をかけると、彼も嬉しそうに答えた。

 

 

サハリン島

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