だから結局

So After All

【映画の感想】ムーンライト

 

『ムーンライト』、すごくいい映画だった。一人の人物を描写するというスタンスの映画でここまでの映画はない。3章にわかれており、人物の成長にあわせて各時期をそれぞれ別の役者が演じている。
最初のシーンからカメラが人物の後ろをついていくように動く。善悪や正不正にかかわらず、この映画では映す対象をフォローするというメッセージが込められているかのようだ。

 

見たい映画のリストがたまっている。自分にとって今がタイミングだという時を見計らってその中から一本選んで見る。条件は、まず時間があること。そしてその映画に適した気分であること。
このやり方をすると、最近の生活では、コメディやアクションからどんどん消化されていって、人間ドラマが残りがちになる。疲れているとき、落ち込んでいるとき、明るい気分のとき、どれにしてもコメディやアクションを選びやすい。ただ、そのどれでもない無風状態のときが稀にある。そのときのために人間ドラマはとっておきたい。大学生の頃は人間ドラマから順に借りて見ていたぐらいなのに、この変化はどうしたわけなのか。
最高のコンディションで満を持して見たいと思わせる映画、それも「重めのもの」はやはり残りやすい。見たくないわけではなく、おいそれとは見れない、腰を据えて取り掛からなければと思うような映画だ。それで長い間残っていたのが『ムーンライト』だった。

 

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美しく描くということは、肯定的にとらえることの最上級の表現だと思う。

美しく描くというのは映像にしたり文章にすることだけを指すのではなく、目に入る景色をどのように見るか、吹きつける風の感触、揺れる波の揺曳をどのように感じるかというところにある。それこそが表現の根幹にあるもので、見たものをどう再現するか、感じたことをどう発信するかというのは第二義的だ。

『ムーンライト』には原作がある。タレル・アルヴィン・マクレイニーの「In Moonlight Black Look Blue」だ。彼は自らの原作が映画化されるにあたって脚本で参加している。

「月明かりの下で黒い肌が青く見える」というのがもっとも大事なことで、それがあるから、伝えることが意味を持つ。自分がどう見たか、どう感じたかということを抜きにして、表現することはできない。それらは発信や伝達たりうるかもしれないが、表現たりえない。なぜ見も感じもしていないことを発信したいのか、なぜ見えたものや感じたことを排してまで伝達したいのか、というのが結果的に表現になるということはあり得ても、それはやはりそう感じていることに端を発することになる。

しかし、表現になるかどうかという部分はさして重要ではない。表現になること自体はありふれているからだ。

表現することはありふれているが、そのほとんどは潜在しているから、誰かの表現されていない表現(感じたことや思ったことが言葉未然にある状態)を知りたければどうにかして確認しなければならない。ふたりで海に行ったとしても、確認しなければただ各々海を見ているだけだ。それで十分だともいえるし、それでは物足りないと思えるかもしれない。とはいえ、なにも言葉を尽くす必要があるというわけではなく、「海きれいだね」「うん」で十分かもしれないし、海を見ている相手の表情をちょっと見てみるだけで1000の言葉以上の確認になるかもしれない。

詩が好きなのは、言葉の先に見たものを美しく描こうとする表情が見えるからだ。だから、べつに詩じゃなくてもよくて、夜どこかの砂浜でいっしょに海を見て、その人が海を見ている表情が見れたら、他にはもう何もいらないんだろうと思う。

具体から抽象化されジャンル分けされた抽象をさらに抽象化してジャンルの垣根を取っ払った抽象が、とくに何も表さない言葉になったとしてもそれはそれでいいと思う。最高という言葉はただそれだけであれば内容のないことだが、実際には内容はないのではなく言葉の外側にある。何かを見て最高だと言っているはずで、内容はその何かが請け合ってくれる。というよりその何かそのものが最高という無意味な言葉の内容なのだろう。

美しいということさえ言えたらそれで十分。もちろん言わなくてもそう思えたらそれで十分だと思う。それ以外に大事なものなんてない。それがどう美しかったかいえる能力は貴重なものだと思うが、それは希少性の問題でしかなく、相対的なものにすぎない。

すべての詩人はうまく言い表そうとした瞬間に詩人であることをやめる。それは絶対的なものを放棄して相対領域に走ることだからだ。どんな詩人にとっても、彼自身が詩人であることの必然性があるわけではないし、詩人だから何がどうなるというものでもない。ただ自分自身が見たものの美しさなりを絶対だと感じるかどうかということでしかない。それ以外にはなにもない。

でも、だから詩人なのだとはいえるかもしれない。言えたところでそれがなんだということではある。それがなんだというようなことだからそう言えるような、ありふれていてそれ自体取るに足らないことなのだが。

詩人とは、海を見て美しいと思う、ただそれだけの人だ。

誰しも詩人になってしまう瞬間を持っていると思う。そのときに肯定的な気分にならないでいることは難しい。感覚をシャットしなければ不可能だ。シャットできる人は珍しいはずだが、羨ましくはない。それに、もしその人が苦しい状況に置かれていて、心がどうにも自由のきかない状態になっていたとしても、苦しさだったら苦しさを、悲しさだったら悲しさを、ある条件下では無理矢理に肯定されてしまうのではないかという気がする。そこに強烈な反転を伴って。たぶんその人自身が生きるために。

苦しかったときにそうやって海を見ていた記憶がぼんやり残っている。

そんな記憶をまるで持たない人も、そんな記憶への一切のアクセスが断たれている人も、もしかしたらいるかもしれない。そういう記憶に必然性がないとするなら、そんな記憶を持っていられるのはあくまでも偶然ということになるから、条件次第では、海を見ても何も感じないという人もいることになるだろう。海じゃなくても何でもいいが、何を見ても肯定的な気分にならない(否定的な気分にもならない)という人もいるのかもしれない。そういう人のことを考えると他者性という抽象が具体的な形をとらないまま、重さを持ってのしかかってくる。

ただ、そういうのもまったくの他人事というわけではない。自分にしたところが、多くの時間を詩人ではない時間として生活しているから、皆目検討もつきませぬというわけではない。しかし、その時間を一切持たないということがどういうことなのか想像するのは正直難しい。相手がこちらのことを想像するのも同程度に難しいのではないかと思う。それでも、もし交流があるのだとしたら、一度こちら側の絶対を手放さないといけないのだろう。手放したり拾ったりできると信じるのは簡単ではない。手放したら取り返しがつかないのではないか、手放した時点で絶対ではなくなるのではないかという恐怖は克服できそうもない。それに手放すことは必須ではない。そうしないでもいい。それがポイントだ。

それでもこのままではだめなのではないか、とまっすぐ進むことに躊躇してしまうとしたら、結果どちらを選んだとしても、その逡巡だけで十分、美しいと思う。

絶対だからと信じてそれから手を離すことを夢想する。『ムーンライト』を見て、そういう瞬間のイメージが思い浮かんだ。

 

 

ムーンライト(字幕版)

ムーンライト(字幕版)

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