だから結局

So After All

【映画の感想】『ラストナイト・イン・ソーホー』

『ラストナイト・イン・ソーホー』を見た。できるだけ予告を見ないようにしているので映画のビジュアルとタイトルから期待して見に行くことを決めていた。タイトルからNYが舞台だと勘違いしていたが、実際はロンドンが舞台で、幽霊が見えるという特別な才能をもっている主人公の女の子がファッションデザイナーを目指してロンドンに上京し、60年代の真夜中のロンドンを夢に見、同じく当時のロンドンに上京してきた女の子の幽霊に自分を重ねるというストーリーだった。映画を見ながらそのことが明らかになるにつれテンションが上っていった。

もっとも幽霊の似合う町は100年以上前からロンドンだからだ。

 

人は普通、幽霊の存在を信じられない。

だから、幽霊が見えるという話もまた信じられない。しかし、幽霊の存在から十分な距離をとれば、それを信じることはなくても、その存在を前提とした話を受け入れることはできる。つまり、メタ的に幽霊の存在を入れ子にして、うちにうちに入れ込んだ状態のまま話が進むことに抵抗を感じないでいることは可能なのだ。

たとえば、映画の世界で登場人物が「幽霊が見える」と言うのに対し「そんなことは絶対にあり得ない」と否定してそれ以降の物語を見ることを止めてしまうという人がいるとすれば、それは幽霊を信じないというよりは、幽霊がいないということを信じているという意見の表明と取られかねない。いないものがいないということを信じるというのは、余計な手数にすぎないし、考えようによっては、いないものの存在を認める行為ともなりかねない。しかもそれでいて、見るのを止めない以上は、やがてそのまま幽霊は登場し、存在することになる。だから結局、こと物語において幽霊は普通存在するものだとされる。

そして、ひとたびその普通を受け入れたなら、それは物語的感性を受け入れることと不可分である。それは漫画を読むときにコマの送り方を読んでしまうのと同じことで、その要請は気がつけばいつのまにかその圏内にいるというように形式的かつ自動的なものである。

『ラストナイト・イン・ソーホー』でも、その見立てに同意するか同意しないかという判断を迫られることなく、いつの間にかその立場に立って物語を眺めているという事態に陥る。そしてそれに遅れて気づかされるというのがこの物語のじつに鮮やかなところだ。

しかも、われわれはそのことにうすうす気づいている。いや、遅れてきた理解によって過去の見え方までもが変化するという体験をし、そのあまりのスムーズな受け取り方の推移に、まるでそのことに最初から気づいていたと感じるのだ。

幽霊はいないと思っている人が、実際にその目で幽霊を見たとすれば、その人の認識は幽霊はいるというものに切り替わる。そしてその認識は遡行的にふるまい、過去のその人自身の幽霊はいないという認識にも滲出し、まるで最初から幽霊はいたと感じていたかのような表現をその人から引き出すことだろう。このような遡行的な認識の変化が幽霊の大きな部分を占めていると私には感じられるし、それを描けていたことで、この映画はまぎれもなくホラー映画だった。何をさておき幽霊が出てくる映画はホラー映画だからだ。