だから結局

So After All

【漫画の感想】奈良へ

twitterのTL上でNHKニュースを見るといつも奈良の感染者数ばかり報じている。

それを見ると、47都道府県あるのだから奈良のことばかり報道していないで、もっと平等に山形とか山口とか和歌山のことも報道してあげてよという気持ちになる。

これは出身地のニュースを、というよりは文字列を、自動的に私の目がキャッチしてくるだけだということを頭では理解しているので、上の気持ちというのは擬似的と言わないまでも意識的にえこひいきした結果の「」に入れたり””で挟んだりして記述するべき作為あるそれである。

それでもやはり奈良という言葉は私のTL上ではひときわ太い字で書かれている感があり、たとえば当該ツイートがリンクを含む内容だった場合のクリック率に注目すると、奈良が含まれるものとそうでないものと間には有意な差が見られる。

これが京都だとそうはいかないはずで、それというのも京都は「東京都」にも含まれていたりするので目が慣れるあるいはセンサー機能が衰えやすいということが想像される。そも「京都」というのもよく見てみれば同じ意味の字をふたつ並べたりしていて主張が強く品がない。それならいっそ強都とするほうがまっすぐな線の多いあの街の単純なかたちが表現されて愛らしさをも感じることができるのにと思う。

対して奈良というのはあらためて見てみると読み方がよくわからない。うっかり「なりょう」などとどんくさい田舎じみた読み方をしてしまいそうになる余地を残している。

[良→ら]と読むのか、という発見とともに奈良という文字はまず文字上の洗練をいまに伝えてくれる。いかにも涼し気なその響き。終わりが良ければすべて良いとされるが、良で終わる言葉のもっとも短くかつ代表的な言葉が奈良だ。

 

そういう事情で私には奈良が私自身の名前がカクテルパーティーのさなかにテーブルひとつ隔てた向こう側の会話で某によって口にされたのを耳にするかのようにTL上で目にとまるのであり、「奈良へ」という漫画の刊行を知ったのも必ずしも蓋然性のないことではなかった。

そしてクリックした先の情報で町田康が褒めていることを知る。しかし町田の小説や何やは面白いもののinstagramはそうでもないし(猫はかわいいんだけど)、最近髪型を坊主にしてたしなあ長髪似合ってたのになあと二の足を踏む。漫画にしては高価な1300円という値段もしっかり向かい風になる。

そんなこじんまりとした満ち引きのなか、私に購入を即決させたのはAmazonの製品情報の「続きを読む」の先に見つけたある言葉だった。

 

第1話 西大寺
第2話 東大寺
第3話 法隆寺
第4話 唐招提寺
第5話 飛鳥寺
第6話 興福寺
第7〜10話 ドリームランド
第11話 平城宮跡
第12話 猿沢池

 

それは第7〜10話に指定されている【ドリームランド】の言葉だ。

第7話がドリームランドというのではなく、第7話から第10話までをドリームランドにしていることもまた肝心で、その厚み付けに矢も盾もたまらなくなってしまった。

ドリームランドという言葉が持つ甘美なイメージは、とくにわれわれ世代の奈良出身者には避けようがない。流れるプール、木製ジェットコースター、閉園、閉園後の荒廃……。それは広く共有されたライフヒストリーの一オブジェクトだ。たとえば私にとっては遊園地がただひとつの意味で遊園地だった頃からあり、遊園地の見え方が変わっていき、乗る乗り物が絶叫系になって、それまでは親に連れてきてもらっていたのが友達同士で行くようになり、といった変化とともにあって、最後には全然行かなくなって、しまいにはとうとうなくなってしまった、しかもきれいさっぱりなくなるというのではなく、その敷地が文字通り廃墟になった、というプロセスの全体がドリームランドなのだ。もうないのだということ、しかしあったという過去を振り返ることができること、しかもそれでいてもうないのだということ、でも跡地は残っている…、という経緯は、ドリームランドの名前のもとで繰り広げられるべき感傷事なのだが、それを当たり前のように共有できるということの方に驚きがある。個人的なライフヒストリーやそれに連なる感傷が他の誰かのそれとつながっているということ。

 

奈良にいたことがあって奈良から離れた人には間違いなく読む価値がある。読み終えて漫画をしまうとき、近鉄電車に乗っているあの景色を幻視(げんし)する。東京で乗る電車と奈良で乗る電車の乗車感はちがう。当たり前のことのようだがはっきり違いがある。その違いによって奈良で乗る電車の乗車感が過去のものになって、それでこんなにもまざまざと幻視するということなのだろうか。何かを幻視する経験があるのはその経験がないよりも良いことだと私は思う。ただ、それによって「たしかにすべてはつながっているのかもな」という気持ちにさせられもする。この気持ちというのは記憶並みの不確かさで、不確かだという自覚があるままいつの間にかそれを所与の条件として扱いだすというような、どこか吸い込まれそうなところのあるそれである。

 


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