だから結局

So After All

【本のおすすめ】『息吹』テッド・チャン

最近出たビッグタイトルを読み逃していた。一度は目に入ったのに、なぜか後回しでいいかと考え、即読むということをしなかった。本当になんでなのかわからない。

 

「自分の愛するものから離れさせるなんて値打ちのあるものは、この世になんにもありゃしない。しかもそれでいて、僕もやっぱりそれから離れているんだ、なぜという理由もわからずに」

『ペスト』アルベール・カミュ

 

読み逃していた小説は『息吹』だ。映画『メッセージ』原作のテッド・チャン、彼の最新作にして2冊目の『息吹』。

先に話題になっていた『三体』を読み、あまり面白いとは思えず、巻き添えで『息吹』を後回しにしてしまったのかもしれない。自分で書いていて意味がわからない。巻き添えとは。

 

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【本のおすすめ】『息吹』テッド・チャン

読書の理由というのは人それぞれだと思うが、自分にとってのそれは自己拡張である。自己伸長ではなく自己拡張。自己伸長は努力をともなう成長のことで、知識の吸収をいう。いわゆる勉強に代表されるものだ。
読書に限らずすぐれた芸術と呼ばれるものは自己拡張をもたらすが、それはもともとの線を伸ばすのではなく、新しい領土を発見するようにしてもたらされる。線が伸びるのと面積が増えるのとでは次元が異なるが、そういった質的な違いが自己伸長と自己拡張にはある。軸に乗りながらでないと伸ばせないのと、軸に乗っていては広がらないのと、良し悪しといえそうだが、その実まったく別の試みであり、本来比べるのもナンセンスである。とはいえ使える時間は現状限られており、そのことによって条理に合わない選択をつねに突きつけられている状況に置かれているため、やはり良し悪しといえるだろう。完全なゼロサムゲームではないにせよ、時間が有限である以上両者はトレードオフの関係にならざるを得ない。


自己伸長が積み上げの論理であるのに対して、自己拡張は変身の論理である。たとえば、見る前と見た後で身体の組成が変わってしまうような経験をしたことがないだろうか。

映画でもドラマでも音楽でもなんでも、それを知る前には戻れないと感じさせるほど強く自分に働きかける作品がある。広がりを意識するのであれば、そういった作品をどれだけ吸収できるかというところに懸かっている。一般に「教養がある」ということの条件はそのことを知っているかどうかである。それを知らずに雑学的知識を増やすのは無意味に等しい。他人がこの映画に感動したとか、この作品はこういうところが画期的で素晴らしいとかを知識として持っていてもしようがない。参考にはなるかもしれないが、それにしても自己拡張の観点でみれば第二義的なことだ。自己伸長のため、社交のツールとして知っておくことが必要ということも考えられるが、知らないものについては検索をかければ済むので、検索速度を上げるほうが効率的である。西部劇のガンマンのように、あるいは居合の達人のようにスマホを操る術を身に着けたほうがどこでも通用する「教養」に近づく気がする。そのあたりのことはテクノロジーの側でなんとかしてくれよと思うので、わたしはスマホ捌きの訓練はしないが、何かを伸ばそうとするのであればどこをどう伸ばせばより簡単に目的にかなうかというのは考えられるべきだ。文章力を上げるためにまずタイピングの練習をするとか。

話がずれたが、自己拡張はそれまで考えもしなかった領域がパッと広がるようにしてもたらされる。それはつねに驚きとともにやってくる発見である。マインスイーパーというビデオゲームで、はじめのうち適当にブロックを開けていると、スペースがドバっと広がることがある(運悪く爆発することもある)が、そのいきなり感が拡張の瞬間の驚きに近い。読書の場合などは事後的に驚かされることもあるので、もし瞬間を切り取ったらそんな感じだろうという記憶だよりの感触だが、そこまで外れてもいないと思う。ただし”はじめてマインスイーパーをプレイしたときの”という条件付きになる。

前置きが長くなったが、表題作の『息吹』(人間とは異なる形状の知性体が残した手記形式の小説である)を読んだ感想はまさに上のような自己拡張がもたらされたというものである。しかるべき驚きがあり、まんまと驚かされてしまった。アイデアが新しく、見たことも聞いたこともないような話だというのではないが、書かれたものを読むうちに、登場人物の考えをなぞり、作者の考えをなぞり、それを受けて自分が考え、さらにその先へ向かう一連の流れがイメージされるのである。抽象的で何を言っているのかわかりづらいと思う。以下の文章は『息吹』を読んだときの読書メモである。

 

0.読みつつ風が吹くのを「本当に」感じた。

 

1.この世界がいつか完全に消え去ってしまうことを知りつつ、何かを残そうとするのは条理に合わないのでは?

 

2.「いた」という形跡を残そうとする物語を通して、今いるここに届かなかったメッセージの存在を感じる。届かなかったメッセージというのはただ単に届かなかっただけであり、そのことで存在そのものがなかったということにはならない。

 

3.今いるここでそれを感じたのなら、はるか遠い未来方向でも、だれかによってそれは感じられるはず。

 

4.本来つながるはずのなかった過去-現在-未来が「息吹」が読まれることでつながる。その接続において現実/非現実という境目は意味をなさない。

何らかの方法でつながっている過去が現実か非現実かというのは見定めることができる。しかし、つながるはずのない過去が現実か非現実かというのは見定める方法がない。未来についても近未来であれば予測・答え合わせが可能になるので、的中/不的中という形で現実/非現実という区別が成り立つ。人類滅亡後、近くに知性体がいないまま文明の痕跡が物理消滅した場合、その先の未来とは実質接続がないということになる。そうすると、その後、別の知性体が誕生したとしてそれを現実とするかという問題がある。
それを現実としよう、そして彼らに手紙を書こう。そう考えて書かれたのが『息吹』である。フィクションではあるが非現実という意味においてフィクションなのではなく、もっぱら書かれた作品という意味においてそうである。フィクションであるということと非現実であるということがつながらず、あるのかどうかわからないほどはるか彼方にあって存在の痕跡をまったく残せないどこかの場所と、今ここにいることがそのままつながるのだから驚く。

 

5.さかんに「AIの進化」ということがいわれるが、AIというのが人工”知能”である以上、AIによる「人間の進化(変化)」について考えられなければならない。

それについて考えさせられるタイトルも『息吹』には収録されている。やや持ち重りのするテクノロジーを手にした人間に出される宿題。

 

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この読書メモとさっきの抽象的な感想とが相補的に関わり合って立体的な感想になればと思ったが、いくらなんでも場当たり的にすぎたかもしれない。でも自分としては意味が通っているつもりでいる。こわい(とおもう)と思う。読んでいなかったときのことを覚えていられないとすれば、自己拡張も良し悪しだ。しかし『息吹』を読んでから戻ってきてくれるようなことがもしあればメイクセンスすること請け合い。
それはともかくとして『息吹』は読んだほうがいい。映画一本分ぐらいの値段でkindleで即買えるし、今は最後の『不安は自由のめまい』を読んでいるところだが、ほぼ全作が傑作だった。『デイシー式全自動ナニー』以外。『デイシー式全自動ナニー』、あれは何が面白いのか、いまいちピンとこない。

 

息吹

息吹

 

『デイシー式全自動ナニー』以外は傑作揃い。

とくに表題作の『息吹』『偽りのない事実、偽りのない気持ち』『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』はたまげるほど面白く、読みながら何度も「面白い」と発声しながら立ち上がったり、部屋の中をぐるぐる歩き回ったりしてしまった。

 

 

あなたの人生の物語

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あなたの人生の物語』もいい。