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【映画の感想】ジョジョ・ラビット

作品名:ジョジョ・ラビット
 
公開日:2020年1月17日
鑑賞日:2020年2月2日
 
見に行ったきっかけ:
友人の評判がよかったこと
 
見る前の予想:
子供が主人公だから大方感動するんだろう
 
視聴直後の印象:

 
感想(ネタバレあり):
どこまでふざけられるか。ふざけて生きようとする真面目でストイックな人間にとって究極の問いがあるとすればこれである。どこまでふざけられるか。
ふざけてもかまいませんよとあてがわれた一角でお行儀よくふざけて遊ぶことから始まり、その一角をそれぞれの経路で抜け出し、生きることはスタートする。絶対に安全なふざけていい場所にとどまってふざけ、そこ以外ではふざけないというのもひとつであるし、その境界線の外側でトライアンドエラーを繰り返しふざけては怒られ、またふざけては笑ってもらい、と冒険するのもひとつだ。絶対安全なふざけていいエリアの外側には広大なグレーゾーンがある。そして、その中には絶対にふざけてはいけない地雷原がある。
 
ウサギは地雷原を駆け抜ける。彼の体重では地雷は起動せず爆発は起きない。それで地雷を物ともせずに進むのかというとそうではなく、ウサギは地雷の存在を知らず、ただ本能の赴くままに野原を駆け回るのである。ウサギはふざけているわけではない。ふざけているのはウサギを地雷原に放つ者である。
彼は少年に向かって「ウサギになれ」という。少年のイマジナリーフレンドとしてアドルフと名付けられたその男は、想像の友人という性質上、間違えるということがない。その声に従った少年はやにわに駆け出し、爆発に巻き込まれて顔に傷を負うことになる。間違えるということがない男にとる責任はない。絶対に安全なふざけていい場所にとどまってあることを強いられた存在でもある。
 
負傷療養中に少年のイマジナリーフレンドは勢力を増し、少年は少年の母親を心理的に追い込んでいく。母親から見た少年は天使でもあれば悪魔でもあるように見えたことだろう。天使である分だけ悪魔に見えもするし、その逆でもあっただろう。自分が必死に抗おうとした当のものに我が子が取り込まれていく過程を見なければならないのは、これほどの苦悩が考えられないほどの苦悩であるように思える。あれほど苦々しく我が子の”成長”を見守る母親が、おふざけで父親のフリをして少年を叱責するシーンで見せる揺れは、彼女の登場シーン全体を通して見られる揺れであり、それをおくびにも出すまいとして全力でふざけているように見受けられた。彼女はいい母親であるし、文字通り存在を賭けて虐げられたものを守ろうとするいい人間である。問題はそれらの思惑が一致することなく、お互いの目標が衝突し、優先度をつけることを強いられるところである。結果、彼女は非常に危ない橋を渡らざるを得ず、二兎を追うもの一兎をも得ずという状況に陥った。SSが家宅捜索をする段になって、旧知の将校に尻拭いをしてもらうとい約束だけは交わしていたようだが、それも最低限の対処に過ぎず、もしこれが映画ではなかったら将校含めあえなく全員デッドエンドになっていたところだ。映画を見ておきながらこれが映画ではなかったらというイチャモンをつけるのは少しやりすぎかもしれないが、言いたいのは少年の母親が失敗したということで、あれだけ才覚があり肝っ玉が据わっているいい人間でも失敗するということがある、そういう状況だったというのは映画が選んだ背景でもあるので、ぎりぎり成立する言い分ではないかと思っている。
高いところに成っている実を取ろうとして落っこちた人間を攻撃するような真似はしたくないが、彼女が自分の仕事のために息子を危険に晒していたことは動かせない事実である。それがはっきりと表れるのが家にユダヤ人の少女を匿うという行為で、匿いながら当人にあなたと息子どちらかを選べと言われたら息子を選ぶということも言っており、優先度をはっきりさせるのは正しい間違っているでいうと正しいことだが、自重を促すためというよりは自身のつらい立場をわかってほしいという思惑が働いたようにも見え、そういった弱い態度はあのような特殊な状況下では破滅を招くことになる。
にもかかわらず、危ない橋を渡りながらユーモアを失わず、どちらかを選ぶことでどちらかを捨てるということをやりきれず、楽しいときにふざけ、苦しいときにもふざけようとするのは、価値のある態度だと思う。希少性のように排他的・相対的な価値ではなく、そうしないことやそうではないことを攻撃しない絶対的な価値であるように思う。
だからといってふざけることがつねに絶対的な価値を持つわけでは当然ない。もしそうであればふざけることが許されている安全地帯でニコニコしているだけのことで、それはふざけるということから縁遠い。
ふざけるというのは、本質的には、地雷を踏むということが起こりうる場所で走り回るような危険な行為で、地雷を踏む可能性のことであり、潜在的に地雷を踏むことである。
 
自分の優位性を保とうと、いつでも余裕たっぷりであるように見せかけるためふざけているような態度を取り続けていた少女が茫然としてしまうシーンがある。ウサギが地雷に足をかけたこの場面での無音の爆発には胸えぐられる思いがした。ふざけているとこういう事が起こるということを知っているから、それらの経験が思い起こされたし、それの最大級の、本来であれば取り返しのつかないような、無知ゆえに助かったケースで、それでも決定的な爆発が起こってしまっていた。このシーンがつらかったのは少女がウサギを爆発から守ろうとしていたように見えたことだ。取り繕うことができないほど傷つきながら(彼女の置かれている立場を考えると取り繕わない状態で外に出ているということは死につながる無防備なことである)、彼女は存在するはずのない手紙から離れられないのである。それでものすごく長い間、爆発が続いていたように見えた。
 
大切な存在を失い、進退窮まって、駆け回ることができなくなった少年は、もはや安全ではなくなった外の世界で、地団駄を踏むようにして足踏みをする。ウサギとして野原を駆け回ることはできないが、野原を駆け回った記憶をたよりに足踏み鳴らし、目の前の相手にふざけた動きをアピールする。そのふざけた動きにどこか切実なものが感じられるのは、いつか母親が見せた精一杯のふざけた動きを無意識のうちに模倣しているからだろう。ふたりは競い合うようにしてふざけた動きを披露し合う。彼らにしか聞こえない自由の音楽の下で。
 
 
おすすめ度:
目が回るほど忙しくてももっとも優先度の高い予定に組み込んで見に行くべき
 
 
神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

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  • 作者:村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/02/28
  • メディア: 文庫