別にいいじゃんという気分について
松本大洋を読むといつも心がかき乱されるけど、読んでも何も感じなくなる日が来たりするんだろうか。この度はなんだかそういう日が来そうな気がしてかき乱されているようだから、結局そんなふうになってしまったと感じてかき乱される日も遠からずだろうか。しかし抵抗しようという気は起きない。
— 松谷 (@mttnysk) 2021年11月8日
――別にいいじゃんと思う。
ツイートで十分書けた気になるのは間違いなのだろうけど、それでも別にいいじゃんと思う。もし間違っていたとしてもそれを咎めるものは私には存在しない。たとえば私が何らかの名前がついた役職に就いている人で、その役職にふさわしくないことを言ったり書いたりしたのだったら、誰かがそれは間違いだと言うだろう。しかし、私はなんの役職に就いてもいないし、よしんば就いていたとしても、もしかこれから就くとしても、それをこのアカウントに紐付ける気がない。気がないといっても、断固たる意志でアカウントと実自分とを切り離そうとしているわけではなく、あんまりそういうつもりがないというだけのことで、のちのちこれがどこぞに引っ張り出されて怒られることになったら困るが、かと言ってどうしようと心配することもしていない、ぐらいの話だ。家族に見られたり、昔の友達に見られたらというのは、考えてみたら少し嫌だという気はするものの、別に心配するほどのことを書いていないし、ギリギリを攻めたり身を切って自分の表現を突き詰めている気もいく気もない。自分からこれが私の書いたものです読んでくださいとお願いすることはもちろんしない。人が嫌がることを書こうという気もない代わりに、喜ぶことを書こうという気もまるでない。味がなく、においがあるという意味では、屁のようなものを書いているという気がある。人前にいて人目があると思うと屁を出そうとは思わないし、むしろ屁を出さないようにと努めると思うが、部屋の中でひとりのときには屁をガマンしたりしないように、この場所ではガマンして書かないようにするということをしない代わりに、ガマンして何かを書こうとしたりしないと思う。でも、たまに頑張ってなにか書きたいと思うことはあるかもしれない。気持ちが長続きしないから長いものが書けないけれど、――
1500円。