だから結局

So After All

Y島のドトールでのこと

Y島のドトールで『後藤さんのこと』を読んでいる時だった。正確には、『さかしま』(短編集『後藤さんのこと』所収)を読んでいる時だった。突然隣席の若い女に話しかけられた。

女はついさっきまで寝ていた。自分が『さかしま』を読む前、ネットワークの勉強をしている最中に、自分の左隣に座り、何らかのサンドを食いテーブルに突っ伏して寝てそのままのようだった。集中していたので一連の流れを直接見たわけではなかったが、皿の上のくしゃくしゃになった包み紙やら女の様子でそれとわかった。左手にスマホを握りしめた体勢で、スマホの画面はLINEのやりとりを表示していた。やりとりの内容こそ見えなかったが、相手からの文言が二度にわかれて送られてきていて、次は女の手番のようだった。しかし女はスマホを握った左手を枕に、顔とスマホをこちら側にむけて、無防備に口をあけて寝ていた。もちろん美人ではなかった。顔の作りがどうこうという以前に、美人はそんな寝方をしない。服は小奇麗というわけでもない黒の上下だったが、靴は卸したてのようにピカピカなダークブラウンのローファーで、まるで絵に描いたミスマッチだった。ローファーのピカピカ具合にあわせるように両足をきれいに揃えて座っていた。閉店間際で人が少ないとはいえ四人がけのテーブルを一人で占拠しながら口をあけて寝ているのに、両足はきちんと揃えていた。

しばらくして起きる気配があったので、ちらとそちらを見るとがっちり目が合った。寝てた?と問いかけてきたので「めちゃくちゃ寝てたね」と答えた。女はよだれを拭うようなジェスチャーを二度三度繰り返しながら、やば、やばと呟いた。正面にある壁掛け時計を見てやば、スマホの画面を確認してやば、自分の寝相を心の中に振り返ってなのか、虚空に向けて呟くようでもあった。

自分は激しく動揺した。ひとつには女がかわいかったからである。自分にはかわいい女に対して動揺するようなことはないという自負がある。それにもかかわらず動揺してしまったのは、偏にそれがまるで予期されていなかったからだ。かわいい女に対して張るバリアを準備していなかった。まったくの不意打ちだった。

もうひとつには、本の世界に潜っていたからである。自分は本を読む時、パッシブなモードになる。集中すればするほど自発性のようなものを失い、書かれた文字と自分との境界が曖昧になる。そのいちばんやばいところで女が目を覚ましたのである。

起き抜けに隣のやつに寝てた?と問いかけ、答えを聞くなりやば、やばと呟く女を前に、自分は為す術なくただただ「やばい」と思っていた。この女が起きたらからかってやろうと思って心の中に準備していたセリフも、反射的に答えた「めちゃくちゃ寝てたね」という第一声が邪魔をして使えない。なんだその愚にもつかないセリフはと自ら呆れ、勝手に進退窮まり、たまらず店を出た。先会計はこういうときにも便利だ。ちなみに用意していたセリフは「面白い夢みた?」だった。妄想用だけあってもっとひどい。

店を出てひと駅分歩きながら、動揺の原因について探った。自分の意気地のなさに対してする言い訳を考えついて慰安を得たかったのだ。ひと駅分の結論は、あの女は恐れを知らぬ自然児だった、という穏当なものに落ち着いた。

自分は日頃から恐れるものは何もないかのように見せたがるが、言うまでもなく実際には恐いものはたくさんある。人が恐いと思っているもののなかに自分にはさして恐いと思わないものがあるので、それを長所として考えるうちに恐いもの知らずのような気分になっていただけだ。それが生活の役に立つうちはそんな気分に浸っていてもかまわないと思っているし、実際そうすることで利益を得てもいる。恐れを知らぬと思わせることができれば優位に立つことができる。相手が恐くなければ対峙しても平気だ。

知らない他人にむけて起き抜けに問いかけたりできるあり方。そういうあり方に気圧されてしまった。圧倒的な気負いのなさだった。目を丸くしたあの表情は本物の寝起きでしかなく、人はこんなにも目覚めることができるのかと驚かずにはいられなかった。いられなかったというより、正確には、今も驚いている。

あれからY島のドトールには二回行った。もちろん勉強するためである。『さかしま』はもう読み終わった。

 

 

後藤さんのこと (ハヤカワ文庫JA)

後藤さんのこと (ハヤカワ文庫JA)