だから結局

So After All

もやしを食う馬

20代の頃、俺は周囲からうすのろだと思われていた。陰口を叩かれたとか、そういう態度でもって俺に接してくる奴がいたとか、そういうことではない。面と向かって木偶の坊だの塗り壁だの、指を指しては笑い反応がないのに笑い、酒を飲んでは笑ってきたのだ。そのうち飽きたのかそんなことを言ってくる連中は俺の前から姿を消してしまった。俺が東京に出てきたというのも一応の理由にはなるだろうが。

とにかく、つい最近まで何を言われても平然としていられるというか気にならないというスタンスを取り続けてきた。合同コンパの場で男から「やさしい」女から「やさしそう」という罵声を浴びたことも一度や二度の話ではない。

しかし俺はそれでよかった。それでよかったというと語弊があるが、それでもよかった。人間関係で悩んだことなどないし、俺をうすのろと指さしたやつは物事の表面しか見ない愚図だと思っていた。実際には表面しか見ないのではなくただたんに俺に興味がなかっただけだろうが、そんな奴は俺に言わせてもらえばやはり愚図でしかない。

俺は夏目漱石が好きである。漱石が芥川に贈った言葉にこんなものがある。

きみ、焦ってはいけません。牛になるのです。きみたちのような若い人はとかく馬になりたがるが、牛のように図々しく押していくのです。

 

思い出したままの抜き出しだが、若い頃はこの言葉をありがたがって、周囲がむやみに焦り抜いていることもわかっていたからその逆張りのように図々しくして居た。それでうすのろと呼ばれるので、それはまさに図星を逆にかいたようなものだからまあそうだろうなという受け取り方で済ましていた。

そんな俺が今何をしているかというと晩飯にもやしを食っている。まいばすけっとという帰り道にあるスーパーで買った一袋29円のもやしを2袋、レンジで温めてポン酢をかけた温もやしを食っている。俺はこの状況に怒りをおぼえた。

32歳の男がぼろいアパートで一人もやしを食っている。もやし美味いなと言いながら100円しない缶ビール(風飲料)を飲みながらテレビでお笑いの番組を見て笑っている。この状況に怒りをおぼえないで図々しく進んでいくなんてことはさすがの俺にもできそうにない。というか俺の場合は牛のようにただ居ただけで、進んでもいなければ何かを押してもいないのでどっちみちあれだがとにかくこんな状況でへらへらしているほど俺は肝が据わっていないのだ。

30代といえば、周囲はなにかと落ち着いていく頃だと思う。若い頃のようにむやみに焦り抜いたりもしないのだろう。大切な人のために、牛のようにずんずん進んでいくのだろう。俺はまたもや逆張りというわけじゃないが、32からはもっとピリついてやっていくことにした。それで晩飯にもやしを食い始めた。もやしは美味いが笑っている場合ではない。俺は晩飯にもやしを食う。図々しく何かを押していくためにではなく、鞭を持って焦りながら人混みの中をばたばた駆け回るため。あと、腹が出てきたようなのでそれを何とかするため。