だから結局

So After All

「書を捨てよ、町へ出よう」について

寺山修司のことが嫌いだが、それはこの言葉に代表される「話を聞いてくれる人に向かって、言わずもがなのことを言って先導しようとする姿勢」がムカつくからだ。
書を持っている人は、基本的に読む人であり、人の話を聞く人だ。彼らに向かって呼びかけるのは、テレビを見て日々を漫然と暮らしながら何の不満も持たない「聞く耳のない大衆」に向かって呼びかけることとはまったく異質のことである。
聞いてくれるからという理由で聞いてくれる人に向かって呼びかけるのは当然といえば当然のことなのだが、その当然さはテレビを見ながらさしたる不満も持たず日々を暮らす人たちの領域に属する。その当然さを利用しながら、聞く耳を持つ良心的な人たちに向かって、少し待てば彼ら自身がそう結論するにちがいないことを早手回しに呼びかける。それはそのようにアジテーションするのを自分の手柄にしたいからにすぎない、というのは特別悪意あるものの見方ではないはずだ。動員し、大きな流れ・時代のうねりがここから生じていると実感したいというのは、なにも寺山修司だけに見られる特殊な態度というのではない。今日でも発信者の言葉に耳をすませてみると、そういったアジテーションの気味が多分に聴き取られる。言い回しを工夫し技術的洗練が見られるものもあれば、とにかく刺激的な強度を増し増して、露骨さを持って、かつてのテレビ視聴者にも聞こえる大声を張り上げているものもいる。いずれにせよ寺山よりもテクニカルなものも野心的なものも数多くいて、彼はただ先行者利益を拾得しているにすぎない。それなのに今だにビレバンの限られたスペースに彼の本が平積みになっているのが解せないし条理に合わない。はっきりいって腹が立つ。下北沢のビレバン百田尚樹の本が置かれているのを見つけたときも衝撃だったが、そういった一過性の驚きではなく、老人たちの青春に特有のしぶとさを感じる。高齢社会による老人の数の力で需要があるせいで今なお寺山受容が続いていることは、ごく控えめに言って不快だ。

「書を捨てよ、町へ出よう」の後半部「町へ出よう」が正しいから、前半部もそれに引っ張られて正しいふうになるのが許せない。きちんと考えれば一部が正しいからといって全部が正しいとは限らないのは当然のことなのだが、そんなこともわからないものにとって耳馴染みのいい指令になっていて悪質だと感じる。「間違っていることを正すために間違っていることをするのはしようがないことだ」ですらなく「間違っていることを正すのだから正しい」と盲目的に動こうとする動きが盛んになっていくとすれば、一見正しいことを言っているような寺山風のアジテーションに責任があるのは勿論のこと、本を読んでいるにもかかわらず彼らの言葉に耳を傾けようとする自称良心的読者にも責任があり、それは決して小さなものではないというのが、自分が今思っていることである。

「書を捨てよ、町へ出よう」を"正しく"言い換えるのであれば「町へ出ればブックオフがある」になる。べつに捨てないでも百田尚樹の本でも買い取ってもらえる(と思う)。当然二束三文にはなるだろうけどそれはしようがない。