だから結局

So After All

【映画の感想】もののけ姫

映画館でジブリを見ようという企画で「風の谷のナウシカ」「千と千尋の神隠し」「もののけ姫」「ゲド戦記」が映画館の大きなスクリーンと高機能な音響設備で見られるというので、4本とも見てきた。

ゲド戦記」は、世評は高くないものの高校生の頃映画館で見て以来好きだった。高校生の頃はジブリ映画は「となりのトトロ」「もののけ姫」以外はそこまで熱心に見ておらず、そもそも映画自体ぜんぜん見ていなかったので、今ほどクオリティに左右されず、こだわりなく見ることができたのも大きいと思う。

ゲド戦記にはわかりやすいテーマがある。それは死の恐怖をどのようにして克服するのかというものだ。そしてその答えというのは直接的なメッセージとして劇中で提示される。

しかし、メッセージが直接的でわかりやすかったから良いと思ったのではない。死の恐怖に一番強くとらわれていた時期に、同じく死の恐怖にとらわれていたアレンを見るという体験が当時の自分にもたらしたものは大きかった。テルーの唄を聴いて助けられたアレンを見て助かったと思った。そのあとハイタカから説諭されるシーンも、説得的というのを越えて言葉が浸透するような感じがあった。

そのあと、大学生になってから映画を見るようになって残りのジブリ映画も金曜ロードショーで流し見程度だったものも含めて見直したり、公開になったものは映画館に見に行ったりした。それからはほとんどのジブリ映画は繰り返し見ている。

新しくジブリ映画を見ると自分の中でのゲド戦記の順位は都度下がっていった。これはしょうがないといえる。他が面白すぎるのだ。さすがに風の谷のナウシカよりゲド戦記のほうが面白いということは言えない。それでも体験は消えないし、そういう体験を未熟さ故のものだとするような考え方には抵抗があったから、ゲド戦記は好きな映画であり続けた。

当時から、自分はこれが好きなんだと思うことが何より大事だったということもある。好きということについて決め打ちをしてしまう癖がある。少なくとも、「その〈好き〉は本当に好きなのか」という自省はあまり意味のないものに思えた。嘘で好きということさえ言わなければ、本当に好きということも必要ないというシンプルな考え方だ。あと、何がいいと思うか何を面白いと思うかというのは変化し続けるのが当たり前できたので、それが変わることがあっても好きだったという事実をなしにする必要はないと考えていた。

それでも、大学3回生の頃、近所のレンタルビデオ屋で500円で売られていたゲド戦記の中古DVDを買って見たときはすこし緊張した。つまらない映画に思えてしまうのではないかと思ったからだ。でも、その時はまだ大丈夫だった。テルーの唄を耳にするアレンを見て、「ほらいい映画じゃないか」と心強く思ったのを覚えている。

今回、ゲド戦記は4作品の最後に見に行った。高校→大学よりも流れた時間の量は多い。もし映画館で見て面白いと思えなければ、今後面白いと思えることはないだろうと思って、見る前にはやはり緊張した。見に行かないでおこうかとも思ったが、結局見に行った。こんなチャンスはもうないかもしれないと思ったからだ。

不安は的中し、残念なことに面白い映画だともいい映画だとも思えなかった。この映画が好きだというのももう無理だ。ゲド戦記は好きな映画だった、などとむなしいことを言うしかなくなった。見始めからやばいなあと思っていたが、頼みの綱のテルーの唄を聴いて、何も感じなかったときに終わったと思った。クモだけにはすこし共感できた。彼が焼かれながら真っ逆さまに落ちていくのを見ていると、自分自身が順調に焼失に近づいているような気がして、見終わったあと嫌な感じが残った。

 

かつて好きだった映画として見るのではなく、はじめて見る映画だと思って、この映画を見ようというルールで「千と千尋の神隠し」「もののけ姫」「ゲド戦記」を見た。ジブリ映画だとも思わないで、もっている回路を一度遮断して、はじめて見るつもりで鑑賞にのぞんだ。それで評価が変わったのはゲド戦記と、もうひとつはもののけ姫だった。

風の谷のナウシカ」だけは映画館で見たことがなかったので、風の谷のナウシカを映画館で見られることの喜びから逃げ切れなかったが、残り三作品をこのスタイルで見たとき、もっとも新しく見れたのは「もののけ姫」だった。もののけ姫はビデオテープが擦り切れるぐらい見たから、次に何がどうなるかは全部わかっている。その記憶をあえて封印して、よく親しんだあのもののけ姫としてではなく、ジブリ映画としてでもなく、ただの新作アニメ映画として見に行ったことで、新鮮な驚きが得られた。始まってすぐにタイトルコールが出るのも含め、見始めから「これはかっこいい映画だぞ」と思い高揚した。映画館で当たりの映画だとはじめの5分で確信できたとき特有の高揚があって、「これは忙しくなるぞ」と嬉しくなった。面白い映画を見ると、できるだけ多くを入力しようと脳が忙しくなる、あの感覚だ。

この物語の主人公アシタカは、自身が受けることになった呪いの元凶をさがして旅をするなか、狼に育てられたもののけ姫ことサンと出会う。この川を隔てた一瞬の邂逅でアシタカははじめてサンを見る。そのときサンの耳飾りがキラリと光り、鈴が鳴るような音がする。

このアシタカがはじめてサンと接触するシーンでのアシタカのまなざしは、呪いのもとを探求する探求心ではなく、降って湧いたものに驚きながらも手をのばす好奇心に一時コントロールを奪われたもののように見えた。

ここで「曇りなき眼で見定め決める」ためには無駄になりそうなノイズが兆した。呪いの元凶をつきとめ断ち切るというのがアシタカ自身、自らの死と引き換えに課したミッションだとすれば、そこに大きな寄り道の可能性が拓けた。直線的にすすむ彼の道に分岐点ができた。

この出来事があったからこそ、アシタカは石火矢にまつわる事実を確認した瞬間にエボシを殺さずに済んだようにも思える。エボシが作り上げ守っているものを目の当たりにしているから、そのことも曇りなき眼を曇らせるような結果になっているのだろうが、かなり際どいところでかろうじて踏みとどまったように見受けられた。それは川を隔てた先に見た少女の曇りなき眼が自らの鏡写しになっていて、それは真正で正真正銘本物だが、だからこそ、その真正さゆえに間違ってしまうのではないかという疑念を自らのものとしていたからではないか。

サンは曇りなき眼で、自らの運命を決定している。彼女が自分に課しているミッションは、森を守るため、石火矢衆率いるエボシの首をとることだ。彼女の目ははまっすぐ前を見据え、直線的にエボシの首へと向かっていく。しかし、アシタカはそれを阻止する。呪いの元凶はエボシ(のなかの夜叉)ではないのではないかという疑念にとらわれているからだ。エボシは呪いの元凶ではなく、結果にすぎない。まっすぐ前を見据える眼差しは「同じことだ」というだろう。アシタカはそれを肯んずることができなかった。

アシタカはエボシとサンの殺し合いを仲裁し、森にサンを連れ帰る途中で致命傷を負う。この一連におけるアシタカの言動は、のちの展開を知らない体(てい)で見ると驚異的だ。もちろん物語なのだから主人公は途中で死なないという暗黙のルールに守られてはいる。しかし、もののけ姫ジブリ映画として見ないという流儀は、そこからさらに発展して、今見ているものを映画として見ないという見方を仮構することにもつなげられる。その仮の観点から、アシタカはほぼ確実に死ぬ状況にある。

アシタカ目線では終わりの瞬間だと見えている景色だ。腹に穴が空き、喉元に切っ先を突きつけられている状況で、まだ望みはあると考えられるほど楽観的な人間はいない。
そこでサンから質問を受ける。「なぜわたしを助けた、死ぬ前に答えろ」

それに答える言葉は、その後の展開はどうあれその時点では疑いなくアシタカの遺言であり、臨終の言葉である。次の瞬間には喉が切り裂かれているかもしれず、そもそも瀕死状態でもあり、余計な言葉を発することはできない。

そこでアシタカが発するのは命を奪う呪いの逆、


「生きろ。そなたは美しい」Live. You’re beautiful.

 

これ以上の臨終の言葉はない。というかこれ以上の言葉はない。

呪いに抵抗し、その逆に向かう言葉である。言祝ぐ(ことほぐ)というのはこのことだ。命令であり、願いであり、事実確認であり、愛の告白であり、祈りでもある。

タタリ神に矢を射った瞬間から、ほとんど脇目も振らず、まっすぐ死へと向かい、自分にできるだけのことをやりながら、突然現れた美しさに束の間心を奪われ、その自らが美しいと見たものをたすけ、結果として死を迎えることになった。

その行程のすべてがわずか三語に集約されている。

終りに臨んで、美しいものに切っ先を突きつけられながら直接この三語を残せるのはまさに僥倖だ。当人の呪いの逆を行こうとする強い気持ちがあってのことだが、いずれにせよフィクションでしかありえないリアリティだ。

もののけ姫を何度も繰り返し見ていると、いくらアシタカが死にかけていようが死なないのは当たり前と見るようになる。反復によってリアリティが変質する。以前見たときに死ななかったんだから今回も死なないにちがいない。それは映画の事実的側面からはその通りだが、リアリティだとは言えない。「生きろ。」というのはもののけ姫のコピーにもなっているし、意識するしないにかかわらずアシタカの臨終の言葉はいつか合言葉的に消費されるようになる。少なくとも自分はそうだった。

物語の筋を作り、次の展開にすすむためのパスワードとしてではなく、初めて聞くセリフとして上の言葉を聞いたとき、虚をつかれるサンのリアクションふくめ、こんなに素晴らしいシーンはない。現実ではお目にかかれないリアリティがそこにはある。

そして、アシタカが決死の思いで口にしたこのシーンがあるから、次につづくシーンはよりいっそう意味深いものになる。アシタカ目線では「そなたは美しい」と言いのこして気を失い、気づいたら森の中にいる。そして、美しい世界に生かされ、かつ美しい人に助けられたと知ることになるのである。もう「曇りなき眼で見定め決める」必要のなくなったアシタカは、サンに口移しで食べさせてもらい目を閉じたまま涙を流す。疑念の中をよろめきながらも、選んだ道をまっすぐに進み、呪いの逆に突き抜けられたと知って泣かない奴なんかいないのだ。

何回も見ていると、いや何回も見ているから、こんなに素晴らしい山場のシーンを見落とすようなことになったのかもしれない。公開当時小学4年生でそれから間を空けずに何度も見ていたので、こういう見えているのに見ていないような事態が生じたのだろう。ほぼ毎回、「おれたち・にんげん・くう」「にんげんのちから・てにいれる」のシーンで猩々の物まねをする応援上映になっていた。

ジブリ映画ではご飯を食べながら涙を流す印象的なシーンが多い。

「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない」 というが、小学4年生がもののけ姫を見て、アシタカが流した涙よりサンに口移しされたことのほうに気を取られるのは当然だ。決して言い訳ではなく当たり前のことである。

そして、これに関して言えるのは、当時も「もののけ姫」が好きだったということである。もちろん見方が変わった今も「もののけ姫」が好きである。どっちがより好きなのかとか、どっちの好きが本当に好きなのかとかは言えないことだと思っている。

 

 

もののけ姫 [DVD]