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【本のおすすめ】『可愛い女』A・チェーホフ


一番好きな作家は? と質問されて、かなり難しい質問なのにもかかわらず自分がチェーホフと即答できるのは、彼の短編に『可愛い女』があるからだ。
チェーホフの代表作は小説というより戯曲で、『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『桜の園』『三人姉妹』のどれかだろう。自分はワーニャ伯父さんがもっとも出来が良いと思っているが、代表作のタイトルとしてよりふさわしいのはかもめだと思う。チェーホフといえば「かもめ」とは必ずしも言えなくても、かもめといえばチェーホフである。’kamome’という発音から自動的にチェーホフが連想されてしまうのは、’kagome’という発音から自動的にトマトジュースが連想されるのと異なるところがない。
チェーホフをおすすめできるのは、神西清の一番良い訳が青空文庫で読めることで、『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『桜の園』『三人姉妹』がなんと無料で読める。ついでにいうと『可愛い女』も青空文庫で読める。
『可愛い女』に登場する可愛い女ことオーレンカは、つねに誰かの娘、誰かの彼女、誰かの嫁であり、自分というものがない空っぽの存在である。自分ははじめて読んだときから『可愛い女』の魅力に魅せられたが、作者であるチェーホフの他者へのやさしい眼差しとでもいうものと、その目を通して可愛い女が可愛く思えたことによる。「弱き者、それは女」といったのはハムレットだが、その弱さこそが愛すべき性質そのものなのだと見なしたのがチェーホフである。
いずれにせよこの見方は上から目線である。チェーホフは医者だったから、医者ー患者という関係が板についていたのだろうというのは単純化しすぎた見方だが、それでも、そういう関係になることが多いひとりの人間が自分以外の他者を好きになろうと努力した跡が見られる。ここがポイントで、誰かを好きになろうと思うのは上から目線の態度である。人は誰でも、誰かを好きになろうと思うと上から目線を避けられない。
反論として考えられるのは「恋はするものではなくて落ちるもの」という観点だろう。
だが、好きになってしまうという受動的な捉え方は、無意識に自分自身の上から目線を隠蔽しようとしているにすぎない。相手のことが好きなのに、相手を見下ろす位置に目線を置いてしまうのをきまり悪がって、あくまで対等の存在として相手を見ようとするのは、それ自体が相手を対等の存在とみなしていないことの現れである。そもそも、対等であれば対等とみなす必要がない。対等の関係というのは、関係というものを甘く見た結果出てくる観念だ。関係はどれだけ理想的なものであっても強弱のバランスでできている。強弱のない関係がいい関係かというとそうではないだろうし、おそらくいい関係とはバランスが取れている関係のことだ。
チェーホフはたくさんの女性を好きになった人だったようだ。情熱にあふれたと形容してもいいが、情熱にも型があるから、チェーホフの側だけでたくさんのバリエーションを持てたとは思わない。相手にあわせてバランスをとろうとしたことはあっただろうが、基本的には繰り返しになるだろう。相手が違えば、いくら自分の型が決まっていても一本槍というわけにもいかないし、そうやって似ているようで少しずつ違う関係を楽しんだとするなら彼の生涯は充分短いといえる。
しかし、チェーホフはどこかで自分の上から目線をきまり悪がったはずだ。そうでなければあれほど率直には書けないほど『可愛い女』は率直に書かれている。
今回読み返してみて意外だったのは、他者として見つめていたオーレンカの空っぽぶりがそのまま自分のものとして読めてしまったことだ。しかもそれを嫌だとも思わず、すんなり自分のことだと思ってしまった。前に読んだときにはなかった観点であり、そういう性質を誰かから譲り受けたとしか思えない。前回読んだときには自分の中にはなかったものが、今たしかにある。とすればそれは外からやってきたと考えるのが妥当だろう。

 


冬は冬で彼女は窓ぎわに坐って、じっと雪を見つめている。春の息吹きがそよりとでもしたり、風のまにまに寺院の鐘の音がつたわって来たりすると、突然どっとばかり過去の追憶が押しよせて、あまく胸がしめつけられ、眼からは涙がとめどなく流れるけれど、それもほんの束の間のことで、胸のなかは再びがらんとしてしまい、何を甲斐かいに生きているのやらつくづく分からなくなる。

『可愛い女』 アントン・チェーホフ 神西清

 


チェーホフは30歳のときにサハリン島に行き、『サハリン島』というルポルタージュを書いている。サハリン島とはロシアの極寒の流刑地だ。およそナイーブな人間が生き延びられる場所ではなかっただろう。そんな場所に行くというのは、チェーホフらしくない突飛な行動にも思えるし、じゅうぶんな余白をとるならチェーホフらしいともいえる。
サハリン島』を読めば彼の突飛な行動の動機がわかるとは思わないが、彼が自分自身の情熱の型から逃れようとしていたことがわかるような気がしている。他者のことを好きになろうとすること。どうやっても好きになれないような可愛くない人を好きになろうとすること。そういうチャレンジをしてみたくなったのではないか。
好きになることに成功することではなく、好きになることに失敗することでしか、上から目線は解消されない。それは、すれ違っていく他人、純然たる他人、他人の中の他人、どういう言い方をしてもいいが、他人にしかできないことだと自分は思う。

 

 

 

可愛い女

可愛い女