だから結局

So After All

サイコパスって

 

偽名を使うのは、サイコパスの大きな特徴の一つ

サイコパスの真実』原田隆之

 

友人からサイコパスといわれたことがある。たぶん冗談なのだと思うが、それがどんな笑いどころをもつ冗談なのかわからないので、そう言われたときの困惑はそれなりにあった。また、自分自身の自己認識とサイコパスの意味内容とのあいだには大きな開き(ひらき)があると考えているので、言われたことの意味はわかるのだがそれが理解と合致しない。それは誤解だと言うほかないのだが、サイコパスと言われたらその時点で負けという気もする。人狼ゲームと違って自分の前にあるカードを裏返して、ほら村人だったじゃん!と逆転することができないからだ。それにサイコパスには褒め言葉的なニュアンスが感じられる。自分は全然サイコパスじゃないとは思うけど、そう言われて満更でもないし、的はずれな褒めを与えられていると感じながら否定するときの面映さ(おもはゆさ)がそれなりにあることは認めなければならない。何にせよ「あなたは特別だ」と言われてわるい気はしない。などという平凡さをそれなりに持ち合わせている。
しかし、たとえサイコパスと指さされるのが冗談であっても、自分にその気(け)がまったくない、思い当たることは何もない、とはいえないところもある。感受性が強いひとは対人・対社会において苦労するという情報を得ていること、自分は感受性が強いほうだと強く感じていること、対人・対社会で苦労させられることは絶対に嫌だという信念を持っていることから、サイコパスとも共通する、ある特徴を身に着けようとしてきた。それは「あまり気にしないようにしよう」というもので、対人関係・自分の社会的地位について思い煩わせられたくない一心でのことだ。
それでもやっぱりいろいろ気にしてしまうし、気になってしまうことはたくさん湧いて出る。それでも「気にしない気にしない」と念じているうちに、おそらく加齢もあるのだろうが、20代の頃ほど色々なことが気にならなくなってきた。色々なことというのは些事・雑事(さじ・ざつじ)のことだが、それは自分にとっての些事・雑事ということであり、人にとっては些事でも雑事でもなく、主事(しゅじ)だったりするかもしれない。そこはそれ「人は人、自分は自分」という昔ながらのトートロジーの出番としている。
そうは言っても「些事は些事、主事は主事」ときっちり切り分けられるものでもない。タイミング次第では自分の心に多くを占める”大きな些事”となることもあるだろうし、何もかもがどうでもいいというときには”取るに足らない主事”ともなるだろう。具体的には考えづらいがそれらが逆転することだってないとはいえない。その観測には念入りかつ頻繁に鼎の軽重を問う(かなえのけいちょうをとう)をしなければならないだろうが、それほどまで念入りかつ頻繁に鼎の軽重を問う人がいてもいい。

 

サイコパスの中心的特徴は、不安の欠如である

サイコパスの真実』

 

自分の傾向性がある方向に突出していて、それが原因で苦しい思いをしているのなら、自分をその反対方向に引っ張ればいいのではないかと思っている。たとえば、神経質な人は、無神経と思える人から学べることはたくさんある。自分の周囲の無神経な人から学ぼうとするとイライラがすごいので、自分とは無関係の無神経人間から学ぶのがおすすめである。
神経質な人がよくやるように、突出したものを杭を打つようにして潰してしまうのは間違っている。それは暴力的な解決に思えるし、何よりもったいないことだと思う。人間力の増強にとって、これからは”幅”がポイントになると踏んでいる。突出した方向とは逆方向に進めば、それはそのまま幅になる。幅というと抽象的だが、たとえばドレッドヘアーで茶道を学んでいたらそれも幅だろうし、何も難しく考えることはない。自分の位置を不動のものと思い込むのではなく、移動可能と信じて移動するだけのことである。やったことある人なら知っていることだろうが、今の自分ではない自分になろうとすると、その瞬間、自分の輪郭がぼやけて二重になるのを感じる。それは楽しい錯覚だ。
自分の傾向性を見極めて動くこと。昔からいわれる自分の長所を伸ばせというのもある意味無責任ではないかと思っている。伸ばしたらそれに伴って苦痛も増えるはずだ。その苦痛が耐えられるものであるなら、耐えて、それを武器にするのもいい。ただし、その先にしか”実現”はないというのは大嘘だと思っている。
そもそも、実現させることが目的になりすぎていないか。夢を見たのならそれを果たさないと意味がないと本気で思っているのか。なりふりかまわず? 何を犠牲にしても? 自分はそうは思わない。
気にしないことについて、実際は気にしているから気にしないようにしようと思うのであって、その時点でサイコパス失格である。はじめから気にしないようにしようという発想がないのがサイコパスだ。
はじめから気にしていないように見せようというのはやせ我慢的な演技なのだが、自分は演技力だけには難があるため、おそらく相手には筒抜けになっていると想定している。だから罵るにしてももっと辛辣な名付け方で罵れるのにもかかわらず、そうしないでサイコパスと指さして済ませてくれるのは、ある種の配慮であり優しさだと受け止めている。
しかし、いつまでも相手の優しさに依存するわけにはいかないので、演技力を増強しようと目論んでいる。この方向で演技力を増強することは、外面的にはよりサイコパスらしく振る舞うことと同じである。今でこそ色々なことをあまり気にしないでもよくなっているが、持ち前の感受性の強さを反対方向に引っ張るにはまだサイコパス味が足りないとも思っている。
サイコパスの真実」というやや扇情的なタイトルの新書で”サイコパスの条件”としていろんなことが書かれていたが、これだけはするまいと思った内容がある。

サイコパスは、人の自信のなさにつけ込む」 (要約)

対人関係で、つねに自分自身に問い続けるべきこと。相手の自信のなさにつけこんでいないか。それだけに気をつけていればあとは大丈夫と思える、決定的な内容だと思う。相手に向けてそういうことをしていないか、セルフチェック項目は相手次第でいくらでも増えていくが、これだけは誰に対しても欠かさないようにしようと思った。自分が誰かにされて一番ムカつくと想像できるのがこれなので、それを相手にもしない。まあ当たり前のことだ。

ちょっとだけ難しいのは、多くの場合、自信がないようにみえる人は自信満々の人より圧倒的に魅力的に見えてしまうことだ。その部分に親近感をおぼえるのは自分にとって自然なことなのだが、自信のなさから発する魅力をあんまりじろじろ見るのも不躾(ぶしつけ)だし、あれどもなきがごとく、気にしないようにしないといけないと思っている。

さらに、三者関係のことを考えると話がややこしくなってくる。夏目漱石の『こころ』で主人公の「私」が「お嬢さん」をめぐり「K」に対して行った一連の行動は、Kの自信のなさにつけ込んでいるといえる。そして、私がKの自信のなさにつけ込むのは、私に自信がないからである。私は私自身の自信のなさについて分析し、これがKにもあるのであれば、十分、つけ入る隙があるぞと考えた。『こころ』で、Kはどんなことを思っていたのか明示されないが、自信のなさを看破され、利用されたと悟ったとき、Kは私には太刀打ちできないと感じたであろうことは想像に難くない。そしてKには私以外の知り合いはいなかった。じつは私が私自身の自信のなさからKの自信のなさにつけ込んだなどとは想像できなかったと思われる。
その他、ビジネスなどの競争場面において競争相手の自信のなさにつけ込むのはコツにもならないほど当たり前のことだし、チームスポーツでも自信がなさそうな選手は穴とみなされて集中攻撃を受ける。
対人関係をも一種のスポーツと捉え、得点を積み重ねようとする者が、とくにサイコパスと呼ばれる。実際、何でもかんでも競争ではないし、スポーツではないのだから、TPOに応じた行動が求められるのにも関わらず、いつも自身の得点のことしか頭にないエゴイストがいたとしたら、彼はサイコパスの誹り(そしり)を免れないだろう。
しかし、対人的な姿勢や対社会的な方針、何を目的にするかというのは曖昧なものであるし、何を選択し、何を選択しないかというのは個人に帰属する権利である。忘れがちなことかもしれないが、幸せとは誰もが目指すべきというわけのものではない。一種のスポーツとして、あるルールの中で、自分の挙げる得点量を最大化しようとする方針の人間がいたとして、彼らに批難される謂れ(いわれ)はない。もしあるとすれば、反則すれすれのダーティプレーを繰り返すようなことだが、それはまずもってルールの不備であるし、「反則すれすれ」「ダーティプレー」とみなされている時点で、見えないほうのルールに抵触しているといえる。結局、彼らはしかるべきペナルティを負うことになるだろう。尊敬されない、嫌われるというペナルティである。

 

サイコパスには、独特のライフスタイルを送る者が多い。彼らは、現在にしか根を張っていないので、過去にはこだわらず、将来のことも考えない。そのため、その日暮らしのような浮き草的生活となりやすい。

(中略) 

自分の人生について、現実的な目標を立てることができず、何も考えていないか、非現実的で壮大な野望を抱いたりする。

サイコパスの真実』

 

 

実人生をどこまでスポーツとみなし、どこまで非スポーツとして考えるかというところに、個人個人各々のバランスがあり、そのスペクトルがグラデーションを成す。人生をスポーツ的にみなす部分があるからこそ、他人の行動・他人の人生をみて賞賛する気持ちが生じるわけだ。名プレー!名プレーヤーだ!というように。
他人の人生の物語化といえば伝記だが、小学生の頃、図書館の奥から戦国武将の伝記小説を引っ張り出してきて読んでいたことを思い出す。嵐の中の日本人シリーズ。その「上杉謙信」を読めば当たり前だが上杉謙信がかっこいい人生を生きたかっこいい人物として描かれており、そういったかっこいい生き方が目指すべきもののように思えたものだ。今では物語化された他人の人生をみて英雄視をすることはなくなったが、それでも『スティーブジョブス』という映画は見たし、ネットフリックスのドキュメンタリーでビル・ゲイツを追いかける番組も1、2話見た。カリスマティックな人物を見ると自然と注意がそちらに向く。
人生を非スポーツ的に考えようとすればするほど、それに伴って要求される、ある種スポーツ的な技巧がある。人生というのが抽象的すぎるのであれば、恋愛に置き換えてみてもいい。恋愛をスポーツ的に考える人間が言いがちなこととして「何人と寝た・誰と寝た」というのがある。そこには明確な得点の形があり、彼らの基準によって点数も決められている。そこには結果があり、結果を出すために必要な努力の方向も整備されている。これはやってみればわかることなのだが、技巧はまったく必要ない。むしろいかに余計なことをせずに行動し続けるかだけがものを言う。延々とその行動を続けられるためには、ある種、非スポーツ的な人生観が必要になると思われる。自分にとって何が楽しいかということを見つける必要が生じるからだ。技巧を発揮し、それが奏功(そうこう)するとき、楽しさは自動的に発生する。背伸びの価値はそこにある。自動的に発生した楽しさ・喜びは、自然、真実のものだと感取されやすい。
しかし、得点を重ねることでどんどんゲームが楽しくなるかといえばそんなことはなく、大体の人間は飽きる。得点すれば得点するほど、インフレした貨幣のように一点の価値は下がっていく。得点すればするほど、一点の価値が薄れていくとすれば、ただ得点することに何の意味があるのかと感じ、自分自身で新しいルールを作って―左手だけで最初から最後までこなし、右手を使わないようにする等―、目標達成を困難にすることで達成時の喜びを、達成の価値を創出しようとする。そうやって作り出された達成困難な目標には、ふたたび、技巧が必要になる。こういった”工夫”の全体は、スポーツ的な技巧そのものである。
言うまでもなく、上記の”スポーツマン”は相手の気持ちなど考えていない。ディフェンダーを出し抜いて得点するストライカーがディフェンダーの気持ちを考えたりしないのと同じである。正確には考えていないのではなく、両者とも、考えたうえでそれを逆手に取るなり上回れる部分で上回るなどして自らの達成につなげるのである。相手の気持ちを推し量り、それを利用するのはスポーツの発想である。もしそれを発揮するのがスポーツ外だとしたら、許されることではない。しかし、彼が自分の人生を、あるいは自分の恋愛をスポーツとして捉えているとするなら、それを咎める有効な手立てはあるだろうか。下手なプレーヤーほど、言い訳のように、人生なんて遊びだよとか、暇つぶしだよとか言う。彼らには共感するが、共感し続けるのは難しい。遊びだよと言う声が、帯びなくてもいい哀愁を帯びていくからだ(あるいは自分の耳がヘンになったのかもしれない)。上手いプレーヤーは決して尻尾を出さないはずだ。だったら尻尾を出さないことを目標にできるのではないかと思ったりするが、そんな悠長な考えではどうやらなさそうだ。楽しいかどうかに関わりなく、ストイックに得点し続けられるのがよいサイコパスだといえるのではないか。ただ得点することに何の意味があるのかと感じたりしない、そこに特徴があると思っている。

 

サイコパスは、自分が取り組んでいることや関心のあることに注意を集中し、他の邪魔な刺激を効果的に無視することができる「能力」を有している

サイコパスの真実』

 

 

こころ

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