だから結局

So After All

今年見た映画、読んだ本

今年見た映画がとても少なかった、今年読んだ本が全然なかった、ということをここ4年ぐらい毎年言い続けている。いやしかし今年はとくにひどい、10年に一度の怠惰さとインスピレーションのなさで、…というとほとんどボジョレーの売り文句だが、本当に毎年毎年変わることなく駄目である。例年と同じで、見るべきだ読むべきだという最低ラインの5分の1も見てないし読んでない。それでも今年はちがうなと思うのは、これじゃいけないぞという感じが例年に比べて一際うすいところだ。べつにもう、たくさん映画見なくてもいいじゃない、たくさん本読まなくてもいいじゃない、という声が着実に存在感を増してきている。
実際、20代のころはもっと焦りがあったと思うし、古典については、「あれもこれも読んでいない…!」と焦るあまり、まだ読んでいない作家を箇条書きにして天井に貼ったりしていた。読んでない古典が多すぎるせいで文字量がどうしても増え、必然文字が小さくなるので、なんて書いてあるのか読めないので読まず、まったく意味がなかったが、剥がすのも面倒といえば面倒で結局天井に貼り続けたままになっている。
最近はそのメモ書きが天井に貼り付けてあることすら認知していない。知っていて目に入っているのに見えていない状態である。本を読もうと思うのも大体そんな感じで、とくに意識して読もうとはしていない。かばんの中に本を入れていくことだけは欠かさないが、全盛期は数十冊の本を持ち歩いていたのにもかかわらず、今はたったの一冊だ。
 
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昔は本が嫌いだった。もう読みたくないよ、、と思いながら読まないといけないと思い込んで必死にだらだら読んでいた。いざ読みはじめると面白いからややこしいのだが、徒歩で図書館に通って座って本を読むというのは結構つらい。もっと気楽な頭空っぽなあそびをして楽しみたいと思っていたのは変化をつけたいからという以上の動機があったはずなのだが、それぐらい毎日が単調に感じられた。本を開くと、それでもというかやはりというか、彩り豊かな世界が広がっていたので、本を閉じたときの空虚な灰色の感じがその色彩との対比になって、余計に、とぼとぼと歩いているこの道が駄目な道だという感じを催した。
ただ、灰色の世界みたいな世界観でやっていると、たまに(3日に1回ぐらい)、すごくかわいい赤子に出くわしたり、青春の追憶に襲われたり、ふいに草木が目にやさしく飛び込んできたり、ぴかぴかの一円玉を拾ったりと、カラフルに思えてしょうがない出来事が現実にも起きたりした。そういうのは単調な生活に順応しようとして脳が見せる錯覚なのかもしれないし、それらの景色はなんとなくの印象としてしか残っていないのだが、同じくなんとなくの印象としてしか残っていない灰色との対比で、あやふやなままとても良いものだったという記憶になっている。このあたりの色覚感覚は芥川龍之介の『蜜柑』に詳しい。
そういう思い出があるから、無の時間に溜まっていく疲れないことの疲れが必要なのだと考えている。仕事をしていると「あー(無の時間だな)」と感じることがよくあるが、それは完全な無の時間ではまったくないし、純度も低いものだったりする。何よりも、細切れの無の時間なので、量にすればそれなりのはずなのに一向に溜まっていかない。しかし、だから、自分としてはこれに順応するほかないとも思い始めていて、無の時間に溜まっていくはずの疲れないことの疲れが溜まっていかないことの疲れ(無徒労感)をもって、それに反応したり反射したりして、音速高速でもっと遠くに行かなければという窪塚(おもい)をARATA(あらた)にしている。
世の中を見渡してみれば、月にタッチするなんてわけないぜ、という人もいれば、私は月にはいけないという人もいれば、月が綺麗ですねという人もいれば、夢は夢のままにしておくつもり、という人もいる。色々な人が色々なことを言ってるなと思うとせっかくの灰色が晴れるようで、目に優しい一方で、気詰まりな思いがしたりもする。